ハリウッドは映画の制作方法を成立させるのに100年近く費やしてきたが、全ての映画は同じ機械で配信されるため、その手法が非常に発達している。ビデオゲーム業界は、それよりずっと短期間で、はるかに変わりやすい製品のデザイン方法を学習してきた。......(略)......どうすべきかの標準など、存在しないのである。 C.ベーテマン、R.ブーン『「ヒットする」のゲームデザイン』

オライリー・ジャパン 序文より

 
 
 ◆ ゲーム屋は何の役に立つ?


  以前、ある大学の先生からこんなことを訊かれました。

  「ゲーム会社に入っても、
    結局クリエイターとして通用しなかったという人がいるはずですが、
    そういう人に対して会社は何をさせるのですか?」

 日本の会社では、専門職といえども"労働者"として扱わなければならず、「思ったほど有能じゃなかったから」なんて理由で解雇するわけにはいきません。そのため、会社ごとの事情はあるものの、どこでも「雇ってみたけどモノにならなかった」社員の扱いに腐心することになります。このあたり、ゲーム業界であっても、一般論として無縁ということはないでしょう。
  ただ、この先生の質問には、もう一つ大きな前提があります。それは「ゲーム制作のノウハウやテクニックは、ゲーム以外に使い道がないのではないか?」という疑問です。そしてこの問題は、つきつめて考えればクリエイター個人に限定されません。業界全体が同じ目で見られているとも考えられるのです。「ゲーム産業は、特殊な連中が集まって特殊なノウハウの蓄積で営んでいる特殊な存在である」ということなら、まったくつぶしのきかない、ガラパゴス的な業界ということになってしまいます。
  今回は、「応用」を前提に、ゲームデザインの話をしたいと思いますが、前提になるのは以上のような問題意識です。ゲームをデザインする力は、どのように応用していけるのかを念頭に、論じていきます。

 ◆ 読む/書く/話すはどこでも基本


 まず、個人の能力として考えれば、当然いろいろな役に立つはずです。「ゲームデザイナーなど使えない」と思いこんでいる人が、実際のところいるのかどうかよく解りませんが、例えば一般企業の人事担当者が元ゲームデザイナーからの応募を受けたときなど、反射的にそう身構えてしまうかも知れません。しかし、そうだとしたら仕事内容への誤解が原因になっているでしょう。もしゲームのアイデアを考えるだけの仕事なら、確かに他の用途には使えませんね。

 何度も論じているように、ゲームデザインは多彩な仕事です。要約すれば「構想」と「提案」の両面になりますが、"知識+スキル=技術"の公式(第5回参照)が示すとおり、それぞれに前提となる知識が必要です。確かに、軍事だのファンタジーだのに詳しくても役に立つ分野はなさそうですが、こうした用途限定の知識はむしろ例外的です。制作の中心になるコンピュータやソフトウェアに関する知識は、広い応用力を持っています。そして、マーケティングやマネージメントなど、ビジネス一般にわたって必要となる知識もこの仕事では同じほどに重要なもので、一人前のゲームデザイナーなら身につけているはずです。
  そして、クリエイターの中でも、特にゲームデザイナーにおいて強調できることがひとつあります。全ての活動で、他人との交渉を必要としている点です。あれこれ考えて作っていくにしても、自分の時点で完成するということはなく、最終的には他の人に手がけてもらう必要があるのです。
  クリエイターという仕事は、"こつこつ作る"面が大きいことから、どちらかといえば内向きの性格の人に適しています。黙々と仕事をこなし、期日になったら注文以上のものができあがっている......なんてことが、理想視されがちなのです。しかし、自分一人では完結できないゲームデザイナーという立場は、そうした職人根性を許してくれません。コミュニケーション能力=対話を通じてものごとをはっきりさせたり、問題を解決したりしていく能力も必要になってきます。
  また、コミュニケーションは、オーラル言語によるものだけではありません。テキスト言語=文章として行っていく面もあります。企画書やプレゼン用スライドの例をひくまでもなく、ゲームデザイナーの仕事は文書にも多く費やされます。説明としての用途と訴求力の高さを同時に志向しているという点で、大きなアドバンテージを持っているはずです。

 こう考えていけば、ゲームデザイナーとしての力というのは、非常に応用力の高いものであることが解るでしょう。基盤となる知識に加え、どんな仕事においても基本中の基本となる、読む(知識)、書く(文書作成)、話す(提案・対話・交渉)の技術をきっちりと抑えているからです。
  これをマクロ的な視点から考えていくと、「ゲームデザインの応用」というテーマに近づいて行けそうです。

 ◆デザイナーはインターフェイス


 もともとデザイナーという仕事は、異質なものの間の仲立ちをするところに成立する仕事です。
  例えば、グラフィックデザイナー。雑誌やカタログなどは美しさが求められますが、それを実現するためには印刷物として存在する技術的な要請を満たしていなければなりません。製版・印刷・製本の全プロセスに関する、工学的な知識から職人的な技にいたるまでの諸問題を理解している必要があるのです。この、美術と技術という異質な両者の間をつなぐために、グラフィックデザイナーはいます。
  他の領域でも同様です。それが自動車であれ家電製品であれ、芸術家とエンジニアだけを揃えてもいいものはできません。ゲームデザイナーの場合も同様でしょう。ゲームには、美しさだけではなく、面白さや気持ちよさなど、いろいろな種類の快感が求められますが、あくまでもソフトウェア的手段で実現しなくてはなりません。CGやプログラミングなど、コンピュータに関する工学的な知識が必要なわけです。

 異なるシステムの境界で情報などのやりとりをする部分(あるいはその行為そのもの)を、インターフェイスと言います。上記の事実は、「デザイナーの仕事は、インターフェイスのところに存在する」と言い替えることができるでしょう。そして、前節で見たような、個々のゲームデザイナーの職業人としての"使える度"も、インターフェイスとして捉えると理解しやすいと思います。
  ゲームは複合的な創作品です。ソフトウェアとして作られるわけですが、作られた作品にはいろいろな顔付きがあり、映像作品のようでもあれば小説・漫画のようでもありますし、そのどれとも異なる独特の作品性も持っています。こうしたものを作るために集められる開発チームはまさにシステムですが、実はそれ自体さまざまなサブシステムの集合体とならざるを得ません。
  システムとは、具体的に言えば「一定の価値観と技術を持った人の集まり」のことです。例えば映像であれば、「多くの視聴経験と基本技法の知識があり、どういう映像がいい映像かに関するおよその合意ができている、実際に作れる人たち」となります。昔のゲームならこんな水準は不要でしたが、PS3などを使うこんにちの表現では、やはりこういう専門家集団=映像システムがいる必要があるのです。
  問題は、サブシステム間の関係にあります。特定のシステムが他のシステムに従属するものだとすれば、全体としてのゲームではなく、それぞれのサブシステムでの価値観を満足させるものにしかなり得ないからです。いつの頃からか、ゲームには「映画のような」という形容詞が付けられるようになりました。しかしこれを本気で捉えてしまい、映画システムに他は従属するような仕組みを作ってしまったら、結果としてできあがってくるのは"映画のまがい物"に過ぎません。

 ゲームデザイナーは、そうしたいろいろなシステムのインターフェイスとして働きます。それゆえに、ゲーム同様の複合システムを必要とする仕事が登場してきた場合、それへの対応力を発揮することができるのです。
  例えばリッチメディアを売り物にしているようなウェブサイトは、システムハウスからデザイン事務所までさまざまな主体が手がけていますが、私の知るところでは、いちばんいい仕事をしているのはゲーム系のゲーム系のバックボーンを持つ会社です。

 ◆ 専門能力としてのUIデザイン


 さて、前節のキーワード「インターフェイス」ですが、ソフトウェアの世界では特定の意味を持って使われる単語になっています。特に注目されるのが、「ユーザーインターフェイス」。ユーザーもまたシステムのひとつで、それとコンピュータシステムとのインターフェイスという意味で、この単語が用いられています。《*1》

 家電類がどんどんコンピュータ化していく中、ユーザーインターフェイスの重要度は上がっています。にも関わらず満足に対応されていないため、問題は実は深刻です。
  実例を挙げましょう。私は最近ケータイを買いかえ、数年ぶりに多機能型のフィーチャーフォン(=いわゆるガラケー)を手にしたのですが、あれこれ呆れる思いをしています。例えばあるサービスを登録したときのこと。氏名・住所やクレジットカード番号など膨大な項目をいちいち入力し、最後に電話番号を入れるという段階で、悲劇が起こりました。それまでの入力は全部取り消され、最初からやりなおしにされてしまったのです。というのも、DOCOMOの端末の場合、入力フォームに対していきなり文字を入れても、自動的に入力モードに切り替わらず、アプリに対するコマンドとして認識されます。そして「0」は、「これまでの処理を取り消して、最初からやり直す」という機能が割り当てられたコマンドでした。結果、入力した分がすべて揮発してしまったわけです。
  市外局番がゼロから始まる以上、このトラブルは必然です。なのにそんなインターフェイスが使われ続けているのでしょうか。そもそも、特定の機能をなぜいちいち数字に割り当てているのでしょうか(どう考えたって、トラブルの元はここです)。おそらくケータイという商品が、エンジニアリングベースでデザインされているからです。つまりそれは、業務用機材の延長に位置づけられる「小型化した通信機器」なのです。
  業務用機材は、「ユーザーは間違わない」という前提にもとづいて設計されます。プロがあるコマンドを入力するというのは、そうしたいという確実な意思があってそうするわけで、機材としては「もしかしたら、まちがいかも知れない」なんて考える必要はないのです。例えそれが自爆的な命令だったとしても粛々と実行しなければなりません。なぜなら、それが業務用=訓練を受けた者が操作する機械だからです。そして、コマンドは体系的な方が把握しやすいですし、シンプルな方が入力しやすいですね。かくして、全部の機能を1~3桁の数字に割り当てるという設計が行われ、その中で一桁のいちばん押しやすい数字には、重要機能を割り当てる発想が正当化されるわけです。《*2》

 私は、ここにこそゲームデザインの最大の応用領域があると思っています。私たちゲーム屋は、ゲーム機を「小型化した電子計算機」なんて思っていません。それが玩具なのかAV機器なのかで哲学的対立はありますが、「訓練を全く受けていない一般人が、数限りない間違いをしながら使う道具」という現実と常に対面しながら、ソフトを作っています。一方でもうひとつの現実、「ユーザーはわがまま」ということも深く理解しています。「マニュアルをろくに読みもせずにクレームの電話かけてくるな!」なんて怒っていい相手ではないのです。また、習熟度は人それぞれなので、完全初心者用に作られたインターフェイスでは熟練者は満足してくれず、そうしたユーザーのレベルまで考えながらデザインする必要があります。そうした諸条件を満たした上で、新鮮さを感じさせる外観やふるまいを与えなければならないのです。
  ゲームクリエイターだけがその仕事をしているわけではありませんが、少なくとも専門能力としてユーザーインターフェイスデザインと直面している職業なのだと、胸を張ることはできるわけです。

 ◆「ゲームニクス」の展開


 前節であげたような問題意識ですが、一般には「ユーザーインターフェイスのデザイン」は、どういう外観を与えるかという要素も加えた上で、より大きな概念「情報デザイン」の中で論じられています。このテーマは、どちらかといえばグラフィックデザインの延長で考えられることが多いようです。認知科学とも節点を持ちながら、教育研究のシステムが構築されています。
  情報デザインの基本にあるのは、「ゲームもそれ以外のソフトウェアも共通して持っているデザイン要素を明らかにし、多方面に応用していこう」という考え方です。一方で、もっと直接的に「ゲームの持つ特徴を、一般製品のデザインに活かしていこう」という提言が存在します。例として、サイトウ・アキヒロさん《*3》が提唱する「ゲームニクス」を紹介しましょう。
  サイトウさんが注目したのは、ゲームの「人を夢中にさせる秘密」です。そういう特性をゲームは持ち、また、そういうものであるように作られている訳ですが、その正体は何なのかという追求が、最初にありました。やがて、そういう目的意識のない道具が次々と登場するに至り(何十個ものボタンを供えたテレビリモコンなどが典型例ですね)、「マニュアルがなくてもすぐに理解し操作ができるようにする」と「難しいことでも自然とできるようにする」という二つの目的を設定して、ゲームニクスの理論化が行われたのです。
  理論といっても、根本原理から始まる演繹的体系ではありませんが、かといって単に経験知を網羅したものではなく、4つの原則に基づいての体系化を志向しています。

    第一原則 直感的なユーザーインターフェイス
    第二原則 マニュアルなしでルールを理解してもらう
    第三原則 はまる演出と段階的な学習効果
    第四原則 ゲームの外部化(現実とリンクさせて、リアルに感じさせる)

 私が特に注目したいのは、第三原則です。これが意味しているところは、レベルデザインの基本的考え方と合致します。ゲームは、映画などと違って、ユーザーの積極的な操作を必要とします。言い換えれば、ゲームユーザーは、ソフトの操作に習熟しなければならないのです。そこには学習という視点は欠かせませんし、学習には段階的向上という前提が不可欠です。そして、ゲームにおいては「新しい技術を段階的に習得していく」手法は、『ドラクエ』などを想起すればわかるように、むしろ基本中の基本です。

 ゲームニクスは、志向していることそれ自体は、独自のものではありません。しかし、特に「面白さ」を追求している点で、他にはないユニークさを持っていると思います。デザイナーがつい追求してしまうのは「美しさ」ですが、それだけでは解決できないものを、ゲームニクスは解決してくれるのです。
  美しさは、見えない美に対しても及びます(第1章参照)。例えばソフトウェア一般によく登場するものに、ツリー型(ディレクトリ型)のコマンド構造があります。構造化されたデータとして、ツリーは美しいものです。しかし、何かを実行するために、いちいちツリーを最下層までたどっていかなければならないようなインターフェイスは、単に煩わしいだけです。ゲームもソフトウェアなので、本来この体系の方がなじみます。しかしドラクエは、代が変わるごとにそれを改めていき、ショートカット的な操作が増えて行きました。その方が楽しめるからです。最初は多少戸惑うかも知れないものの、反復して使っているうちに自然になじんでいきます。
  こうした泥臭さゆえの「使える」性を、ゲームから直接的に特性を導こうとする考え方では、自然に導けると思うのです。

 ◆弱点は企画?


 あれこれ見てきましたが、ゲームデザインの応用力についてはおわかりいただけたものと思います。ゲームデザイナーとして申し分ないだけの技術を獲得していれば、ゲーム以外のさまざまな領域でも活躍できる、ということです。特にユーザーインターフェイスのデザインなど、「ゲームデザイナーならではこそ」の、他にぬきんでた適応分野であると言えるでしょう。
  ところが、困ったことに足下にぽっかりと開いた穴のような弱点も存在します。他ならぬ「企画」です。
  書店のビジネス書のコーナーに行くと"企画"をテーマにしたさまざまな本が並んでいますが、そこで論じられているような「企画」というものは、私のような人間が見てもかなり違和感を感じさせるものばかりです。それらは多くの場合、商品企画です。市場分析からはじまり、商品戦略とかプロモーション戦術などが項目として用意されているものの、商品の中身についてはほとんど言及されていません。そして、企画書において極めて重要視されるのが、シンプルであること。1ページにまとめろとか、3段×3項目で書けとかいった話になってきます。中には、その名も『企画書は1行』《*4》なんて本もあるぐらいです。

 言えるのは、単語「デザイン」がそうであるのと同じように、単語「企画」も、たいへん多義的な存在だということ。意味するところが、論者と局面によって全く異なったものになってしまうということです。
  ゲームの場合、作ろうとする製品の作品的な構想をまとめたものを企画書と呼ぶことが通例です。特に、ゲームデザインの結果として作られる企画書の場合では、基本的にこれだと言えるでしょう。「どんなゲームなのか」「プレイヤーは何をするのか」「どこがどう面白いのか」「誰にアピールするのか」といったことが具体的に述べられていないと、一蹴されることになってしまいます。一方で、「いくらかかるのか」「どれだけ売れるのか」なんてことは、くだくだと書くべきではありません。企画書を提出する相手はプロデューサーで、彼らは開発現場に近いところにいる自分たちよりもよほどそういう情報に長けていますので、彼らに判断してもらえばいいのです。ところが、世間でいうところの「企画」は、こちらを中心にした概念です。特に製品の企画書など、商品そのものがどういうものなのかなんてことは、ほとんど考慮されていないことが大半です。
  これは、困った問題です。「企画職」の肩書きを持って会社にやってきた人間が、企画面では全く使い物にならないということにもなりかねないわけですから。とはいえ現実なので、受け入れなければなりません。
  ここで、以前にも出てきた悪魔のキーワードが、再びやってくるわけです。

  「全部優先!」

 現実が多面的で、自分の仕事がそのどれをも対象にする可能性があるのなら、全てにおいて「できる」ようになっておくべきでしょう。商品性中心あるいはプロモーション中心の企画というのも、ゲームという商品において不要というわけではないのですから。そもそも、知識としては共通しています。第6回で述べたようなことをきちっとこなしている人なら、後は応用だけの問題なのです。

 ◆アドバンテージを活かして


  本当のところ応用力の有無が業界全体として問題になる局面というのは、そう身近なものではありません。私たち個人にとって重要なのは、やはり個人としての応用力でしょう。ここで冒頭の問題の、もうひとつの側面も見えてきます。そちらでは、会社に入った後の人が問題視されていましたが、実際には入る前の人もいるわけです。つまり、「ゲームクリエイターになるために修業を積んできたが、求められる水準に達しなかった」という人は何をしたらいいのか、ということです。

   「およそゲームの学校に入った以上、道は二つにひとつ。
     ゲームクリエイターになるか、ニートに甘んじるか!」

 こんな考えは、人の心にある少年的な要素を刺激する面があり、相応に魅力的に聞こえます。しかし、あまり現実的ではありません。というのも、能力というのは本来1かゼロかで割り切れるようなものではないからです。有能な人であっても、通常は単に程度の問題であって、質的に根本から違っているなどということはまずありません。
  その結果、言えることがあります。何かを達成するために努力を注いできた人は、たとえその目的のためにはじゅうぶんと言えないにしても、そうでなかった人よりは高い能力を持っているはずだということです。ゲームデザイナーとして半人前未満でも、「一般人よりも遙かに高いコンピュータリテラシーを持った、『読む/書く/話す』がきっちりできる若者」ではあるわけで、その力はどこででも活かせるはずです。《*5》
  実際のところ、こういうことを言っている人は、社会人として不適格な生活態度などを自己弁護しているだけに過ぎない場合が多いのです。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 最後に、ひとつ実用的な話を。
  デザイナーにとって案外重要なのは、実装する力です。例えばグラフィックデザイナーは、職責的には"直接描かない"立場ですが、実は絵を描けばじゅうぶん上手い場合が多いのです。正式に使用するコンテンツは外注するにしても、見本になるようなものなら自力でさっと描いてしまえることが、仕事の上でたいへん有利に働くのは、想像にかたくありませんね。  
  先ほど紹介した「ゲームニクス」は、主張そのものが単純明快なだけに、逆に受け入れられがたい面もあったようです。しかし、実際に動く見本を作ってデモを行うことで、その有用性を証明することができ、プロダクトにおいても実現に導くことができたとのことです。
  実際に動くソフトを作るのは骨ですが、FLASHなどを使えば、比較的楽にプレイアブルなデモを作ることもできます。デザイナーであっても、そうした創る力を身につけましょう。そしてそれは、自身の新たな付加価値にもなるのです。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *
【注釈】

*1 :ユーザーインターフェイス
 これを単純に「操作」としてしまうと、コンピュータからユーザーへのインフォメーションという大事な側面が忘れられてしまいがちです。専門用語には伝えたい特別な意味が込められているので、安易に一般語に置き換えてしまうと用をなさなくなってしまう場合があるのです。なお、昔は「利用者界面」なんて訳している文献があったそうです。


*2 :コマンドは......シンプルな方が入力しやすい......
 言語的インターフェイスの場合でも、「業務用=シンプルな入力」という構図が当てはまります。プロしか使わないUNIXでは、とにかく短いコマンドが多いです。そして、「ディスク上の全てのファイルを消せ」といような自爆コマンドでも、何のためらいもなく実行します。一方、アマチュアの使用が想定されていたMS-DOSでは、うっかりミスへの備えも用意されていました。ディスクのフォーマットなど、「よろしいですか? Y/N」というような形で、念押しする仕様になっていました。(もっとも、ユーザーとしては二連打するのが癖になってしまっているため、ほとんど役に立ちませんでしたが)。


*3 :サイトウ・アキヒロさん
 ファミコン時代から活動されているゲームクリエイターで、現在の肩書きは立命館大学映像学部教授です。ちなみに、お名前をカタカナで書くのは、ご本人がそう名乗られているからです。
  なお、ゲームニクスに関する記述は、デジタルゲーム学会での講演や研究発表の他、次の本を参考にしています。詳細について知りたい方はぜひご一読ください。
    サイトウ・アキヒロ「ゲームニクスとは何か」幻冬舎新書


*4 :「企画書は1行」
  これも新書版で出ている本です。実際には、全ての企画書を1行で書けと言っているわけではなく、「1行でまとめられるだけの突き詰めたキーコンセプトを打ち立てろ」という主張で、実はゲームの企画屋にとってもリスペクトできる内容となっています。    野地秩嘉「企画書は1行」光文社新書


*5 :ゲームデザイナーとして半人前未満でも......
 そして、就いた仕事を通じて能力を高めていけば、あらためてゲームの道に進みたいときにも活かせるはずですね。私自身、新卒でゲーム屋になったわけではありません(序文参照)。実際、ゲームデザインの道は、険しく長い上に、激しく分岐する網目状ですので、新卒時点で極めることなど無理なのです。


 

  Apple Desktop Unterfaceは、人間が生まれながらにして好奇心を持った存在であるということを前提としています。
  人間は記号や抽象表現に慣れ親しんでいます。そして、条件が揃えば創造的で芸術的な存在ともなり得ます。作業や生活の場がエンジョイでき、やりがいに満ちたものであれば、生産性や効率は非常に高くなります。

Apple Computer Inc「ヒューマン・インターフェイス・ガイドライン 日本語版」(1989年;星雲社)

 
 
 ◆ 人はなぜゲームをするのか


 "耳にタコができる"なんて慣用句がありますが、指にできるタコは現実の苦痛です。にもかかわらず、時として慣用句と同じような人生上の教訓をもたらしてくれます。
  かつて「ファミコンだこ」というものがありました。ファミコンのコントローラは、左側の十字キーで方向を入れますが、これに対応して親指の先がどんどん分厚くなってしまうのです。十字キーの真ん中には直径5ミリ程度のへこみがあり、ちょうどここだけ強く圧迫されて、最初はマメができます。痛いのを我慢して続けていると、立派なファミコンだこに成長するというわけです。
  上手いゲーマーは余計な力など入れないので、こんなものをくっつけてるのは、下手なくせにはまりこんでいるプレイヤーだけです。私もその口でした。指だけではなく、親指の付け根の腱まで激しい痛みに悩まされ、それでもやめられませんでした。我慢しつつゲームを続けていたのですが、時折我に返っては思ったものです。......"オレ、なんでこんなことをしてるんだろう"。

 さて、今回のテーマは「ゲームデザインの理論」です。といっても、そんなに高度な話をするわけではありません。昔からプレイヤーとして感じていた疑問=「なんでゲームは面白いのだろうか」について、関係するいろいろな説を紹介しながら、考えをあれこれと巡らしてみるだけです。
  実際、ゲームというものは、少なからぬ中毒性がありますね。私にとっては"ファミコンだこ"がそれを象徴する出来事だったわけですが、人それぞれに類した経験はあると思います。試験や課題の提出日が近づいているなどでもやめられなかったりとか。でも、学生ばかりの問題ではありません。80年代冒頭に"インベーダーブーム"というものがあったのですが、立派な社会人が喫茶店のテーブル筐体に百円玉を山積みにして、取り憑かれたようにプレイし続けている姿がよく見られたものです。ネットが発達した今の時代だと、破滅的にゲームを続ける人というのは、むしろ深刻化しているかもしれません。
  そうまで熱中してしまうほどの面白さは、なぜもたらされているのでしょうか。

 今回から第三部になります。これまでのパートに名前を付ければ、「第1部:導入編」「第2部:実践編」となるでしょうか。
  実はそれらの内容も、元々は私自身の疑問から始まっています。ゲームデザインとは何か、どんな仕事なのか、どうすればいいのか......そんな疑問を持ちながら、ゲーム屋への道を歩んできたのです。それらの疑問は実際の仕事を通じて解けたわけですが、「なぜ面白いのか」という面だけは、相変わらず謎として残っています。まとめに入っていく今回は、その謎へのアプローチです。
  明解な答えは出しづらいものですが、進めてみたいと思います。


 ◆ ロジェ・カイヨワの4分類


 「ホモ・ルーデンス」という言葉をご存じでしょうか。
  人間の種としての学名は、"考えるヒト"を意味する「ホモ・サピエンス」です。ホモ・ルーデンスはこれをもじった言葉で、"遊ぶヒト"という意味になります。唱えたのは、20世紀前半に活動したオランダの歴史学者、ヨハン・ホイジンガ。それまで学術の分野ではあまり重要視されていなかった「遊び」を正面から肯定的に捉えた論考は、当時としては大きなインパクトを持っていました。《*1》
  そして、この問題提起を受け継ぎ発展させたのが、ロジェ・カイヨワです。1958年に発表した『遊びと人間』の中で、その後大きな影響を与える理論を展開したのです。
  カイヨワは、人類の遊びを「意志⇔脱意志」「ルール⇔脱ルール」という2つの軸でとらえました。そしてこれを直交させることで、4つの類型をみちびきました。
  意志+ルールは、参加者がルールの下で明確な意志を持って参加する類型を言います。例えばチェスなどがそうですね。これを「アゴン」(競争)といいます。チェスなどのボードゲームの他、競技スポーツ一般がここに属します。
  これに対し、ルールはあるものの、参加者の意志で進行するわけではない遊びの類型もあります。例えば、ギャンブル。「勝ちたい」という意志は皆共通ですが、結果はそうした意志とは関係ありません。一方で、ルールは妥協の余地なく厳密に適用されます。これを「アレア」(偶然)と呼びます。
  一方、ルールの側が否定されるタイプの遊びもあります。例えば子供のごっこ遊びは、積極的な意志のもとで遊ばれるものの、勝敗は付きません。これを「ミミクリー」(模擬)と言います。おままごとなどが該当しますし、演劇もここに含まれます。
  そして、意志とルールのどちらも否定される遊び。これらに対してカイヨワは「イリンクス」(めまい)という呼び名を与えました。ブランコからジェットコースターまで、たいへん大きなカテゴリーになってきます。
「ホモ・ルーデンス」という言葉をご存じでしょうか。
  人間の種としての学名は、"考えるヒト"を意味する「ホモ・サピエンス」です。ホモ・ルーデンスはこれをもじった言葉で、"遊ぶヒト"という意味になります。唱えたのは、20世紀前半に活動したオランダの歴史学者、ヨハン・ホイジンガ。それまで学術の分野ではあまり重要視されていなかった「遊び」を正面から肯定的に捉えた論考は、当時としては大きなインパクトを持っていました。《*1》
  そして、この問題提起を受け継ぎ発展させたのが、ロジェ・カイヨワです。1958年に発表した『遊びと人間』の中で、その後大きな影響を与える理論を展開したのです。
  カイヨワは、人類の遊びを「意志⇔脱意志」「ルール⇔脱ルール」という2つの軸でとらえました。そしてこれを直交させることで、4つの類型をみちびきました。
  意志+ルールは、参加者がルールの下で明確な意志を持って参加する類型を言います。例えばチェスなどがそうですね。これを「アゴン」(競争)といいます。チェスなどのボードゲームの他、競技スポーツ一般がここに属します。
  これに対し、ルールはあるものの、参加者の意志で進行するわけではない遊びの類型もあります。例えば、ギャンブル。「勝ちたい」という意志は皆共通ですが、結果はそうした意志とは関係ありません。一方で、ルールは妥協の余地なく厳密に適用されます。これを「アレア」(偶然)と呼びます。
  一方、ルールの側が否定されるタイプの遊びもあります。例えば子供のごっこ遊びは、積極的な意志のもとで遊ばれるものの、勝敗は付きません。これを「ミミクリー」(模擬)と言います。おままごとなどが該当しますし、演劇もここに含まれます。
  そして、意志とルールのどちらも否定される遊び。これらに対してカイヨワは「イリンクス」(めまい)という呼び名を与えました。ブランコからジェットコースターまで、たいへん大きなカテゴリーになってきます。


 

ホイジンガの考えの背景には、文明の考察があります。元来彼は古代や中世の文明を研究する歴史学者でした。文明には遊びがつきものですが、通常「文明の結果として」登場するものと思われていました。しかしホイジンガはここに疑問を持ち、文明よりも先に遊びがある=「遊びが文明を作る」という、それ以前の常識からは逆説としかいいようのないテーゼをうちたて、諸文明における遊びを論じていったのです。
一方、カイヨワの説の背景には、ある種の進歩思想があったようです。......従来の遊びはミミクリーとイリンクスの合一を中心としてきたが、これからはアゴンとアレアの合一が中心になるようにしていかなければならない、といったものです。
ただ、どちらの説も、提唱者の思惑を離れ、遊びを論じる文脈ではたいへん広範に引用されています。


 ◆ 発達心理学からの考え方


 ホイジンガやカイヨワの立ち位置には、遊びという概念を人類史の中にどう位置づけていくかという視点があるようです。しかし私たちには大きすぎますね。さしあたり、個人史の中で考えてみましょう。
  まずいえるのは、カイヨワ流の4分類は、ある程度成長してから出ないと当てはまらないということ。子供の頃にはそういった諸要素は渾然一体になっていて、「この欲求に対してこれ」というようにすっきりとは分けられません。そもそも、話のスタート地点にあった「『遊び』vs『仕事』」という二項対立が、意味をなしません。カイヨワも戦前に高等教育を受けた人なので、人間を論じるにあたって「文明国の成人男子」だけを前提視してしまう近代西洋思想の悪癖から、無縁ではいられなかったのかもしれません。
  では、個人史的にさかのぼってみると、どんなことが言えるでしょうか。自分自身の記憶は誰にとっても幼児までですが、観察による推測が許されるのなら、もっと先まで進めます。そして、赤ちゃんもまた遊んでいるのだということに気づくでしょう。赤ちゃんの行動は、かなり"むだなこと"に費やされています。例えば何かがあれば触ってみて、掴んでからなめたりしゃぶったりします。実はこれは、得られる身体感覚において気持ちのいいものと不快なものとを判別し前者を蓄積していくというフィードバックループを形成しているわけで、むだに見えてそうではありません。結果だけを捉えれば「学習」ですが、その過程はまさに遊びといっていいものです。
  「なぜ遊ぶのか」という理由は、この場合は明確ですね。赤ちゃんである以上、身体感覚的な快感以外にありません。
  以後、成長につれて、できることも幅広くなってきます。ボール状のものならいじったり投げたりしますし、棒っきれは振り回したりしてみたくなります。しかし、そうした身体感覚的な楽しみだけでは、長くは続きません。ボールや棒にしても、それを本来の形で使った遊びを求めるようになるでしょう。幼児期の後半になると野球ごっこになり、小学校入学ぐらいでは野球っぽい遊びになり、やがてちゃんとした野球へと進んでいく訳です。

 スイスの児童心理学者ジャン・ピアジェは、発達段階説というものを唱えました。子供の遊びに注目した上で、発達過程と結びつけて4段階に分けたのです。

●感覚的遊び  感覚器官や運動能力と密着した遊び
  赤ちゃんの発達の初期段階から登場する。
●機能的遊び  おもちゃを使った遊び。
  与えられたおもちゃの使い方を理解するところから始まる。
●象徴的遊び  ごっこ遊びなど、何かを真似したり、
  あるいは何かを別のものに見立てたりする遊び。
●社会的遊び 関係性や役割など、人間社会を反映した遊び。
  ごっこ遊びが発展すればこれになるし、特に友だちとの遊びの中で出現する。

 例えば赤ちゃんが積み木を投げたりしゃぶったりするのが感覚的遊びの段階です。やがて成長すると、同じ積み木でも、積みあげたり組み合わせたりといった積み木本来の使い方をするようになります。これが機能的遊びの段階です。さらに成長すると、象徴的遊びの段階に入ります。家なり城なりを組み上げ、人形を配置したりもするのです。そして、それら人形に、王様や兵士といったキャラクター性を与えるようになるのが、社会的遊びの段階です。
  なお、この考えは、「次の段階が、前の段階にとって変わる」といっているわけではありません。3歳ぐらいになれば、社会的遊びの段階に到達しますが、だからといって、象徴的遊びをしなくなってしまうというわけではないのです。

 ◆ アップル流のユーザー観


 ここまで「遊び」一般を論じてきましたが、話をゲームに限定すると、「なぜ楽しいのか」という問いかけは、また別の意味も帯びてきます。例えば、こんな説教をされた経験はないでしょうか。
    「なんで君たちはゲームをするのだ。
     そんな時間とエネルギーがあるんだったら、
     ***をすればいいではないか!」
  何かをゲーム化した場合、結果的に元となるその"何か"とはかけ離れたものになってしまうことがあります。典型例は、スポーツゲーム。野球・サッカー・テニスと、さまざまな人気スポーツはゲームにおいても重要カテゴリーですが、プレイヤーが実際にしていることはテレビの前でパッドを握ってるだけ。「そんなことやってるんなら、外に出てサッカーボールでも蹴って来い!」といいたくなる人の気持ちも、込められている意味(=ゲームはスポーツよりも低級な遊び)の不当さはさておき、わからなくはないですね。でも実は小さくない問題提起です。
  例えばRPG。「剣と魔法の世界で、戦いを通じて成長し、冒険する」と称していますが、実際にやっていることは「コマンドの選択を繰り返して変数の演算処理を実行」の連続です。戦闘も多くはターン制で、自分のコマンド選択が終わるまで、時間は静止している状態。戦闘の舞台も、狭いはずのダンジョンにドラゴン数匹がいたりとか、ありえない設定になっています。こんなものに、なぜ私たちは熱中できるのでしょうか
  ターン制という点では、タクティカルシミュレーションも同じです。「司令官になって軍隊を動かし、戦争を遂行」というのですが、しょせんは「大規模・複雑化しただけの将棋」といえそうです。敵の全部隊が移動し終わるのをじっと待っている軍隊というのは、現実的ではありませんね。また、変数の処理という点は、恋愛シミュレーションゲームも同じでしょう。そしてこのカテゴリーの場合、「絵で描かれただけの女の子を恋愛感情の対象にして、何が楽しいの?」という、アニメブーム以来40年近くも繰り返されてきた嘲笑交じりの問いかけが、形を変えて出現してくるのです。

 今回の冒頭に掲げた短文の引用元は、アップル社によるソフトウェア開発者向けの文書です。
  元々コンピュータは「訓練を受けた者が使う」と考えられていた道具です。80年代になって個人用(=パソコン)が登場しても基本的に違いはなく、マニュアルや技術書をしっかり読んで理解していることが、ユーザー像として想定されていました。しかし現実には、そんな人ばかりではなく、16ビット機の時代を迎えた80年代前半には、パソコン="勉強しないと使えない、マニア的な道具"という常識が形成されていました。その状況でアップルは、誰にでも自然に使える道具として、GUIを本格的に取り入れたパソコン、"Mac"こと『マッキントッシュ』を発売します《*2》。そして、Mac上で動作するソフトウェアのインターフェイスを統一するため、プログラマたちに、具体的なユーザーモデルとそれに基づく設計思想を、ガイドラインとして伝えたのです。
  そこで論じられているユーザー像は、ユーザーインターフェイスのデザインという技術的なテーマに基づいてはいるものの、それを超えた普遍性を持っています。特に、次のような考察は、注目に値します。
    ○人間には環境をコントロールしたいという欲求がある
    ○人間は、自分の行為を掌握することを欲している。
    ○人間は、記号や抽象表現が得意である

  つまり、接していて快適である環境は「把握可能な水準でモデル化された、記号化・抽象化されたシステム」ということになるでしょう。これが意味するものは、現実世界との対比で考えるとはっきりしてきます。現実世界は、ありのままのシステムです。把握不可能な規模と複雑性を持ち、原因と結果の関係は予測困難です。このような場で暮らしていくことに、私たちはストレスを感じます。そこで、自分の関わる範囲を狭く限定したり、あるいは現実を抽象的に理解したりして、自身の望むものとの間に折り合いを付けていくのです。
  逆に言えば、ドラクエ世界が楽しい場所である理由は、最初からそうなっていることに求められます。同じファンタジーRPGでも、例えば『オブリビオン』の世界であれば、かなり現実に近いことになってしまいます。プレイヤーには極端なまでの自由が与えられ、世界は多様で、目的性もあるわけではありません。その環境下でのプレイは、基本的にストレスです。チャレンジングな状況を常に追い求めているアスリートタイプの人にとってはストレスこそ喜びでしょうが、一般人はそうではありません。ゆえに一般人をプレイヤーとして意識する場合、世界は適切にデザインされなければならないのです。


 ◆山田の"快感空間理論"


 ここまでは先人の説を紹介してきましたが、ここでオリジナルの考えを述べさせていただきましょう。私が自分で「快感空間理論」と名付けているものです。

 まず、「楽しい」について確実に言えることがあります。心の作用だということです。ある刺激を受けた場合、刺激そのものは物理量として存在しますが、それは直接「楽しい」を導くわけではありません。心の中に「楽しい」を感じる何かがあって、それとの関係で生じてくるはずなのです。
  よく似た別のものとして、食べ物で例えてみましょう。味は、本来なら「食品の持つ、化学的状態」です。味覚受容細胞の反応という意味では、5つの基本=甘味・酸味・塩味・苦味・旨味に分けることができるもので、それが混じり合うことで特定の味となってきます。実際には、辛い・渋いなどの物理的刺激も重なるためもう少しの幅がありますが、だいたい10種類ぐらいのパラメータを想定すれば、味を数値的に指定することができるでしょう。
  ただ、それを舌で受け取ったとしても、その時点では単なる情報にすぎません。他とは違う特定の何かを感じるのは脳の作用であり、それを「うまい」という形で快感に置き換えるのは心の働きです。そして、どんな化学的状態を快感に感じるのかは、その人によって違いがあります。例えば納豆は、私にとっては「うまい食べ物」ですが、そもそも食べ物として認識できない人にとっては「腐った豆」という化学的状態そのものに過ぎないといえます。また、ある程度の経験を積まないことには、うまいと感じられない食べ物もあります。幼い子供にとって、ウニ、牡蠣、カワハギの肝といったものは、うまいまずい以前に「気持ち悪い」に過ぎません。
  ともあれ、味覚のパラメータを10種類とすれば、味は10次元空間のどこかにプロットされる座標として表現できることになります。そして、食べ物は単独の味だけで構成されていることはあり得ないので、集合的に表現されるものとなるでしょう。つまり、「味空間内に存在する幾何(空間)ベクトル」と捉えるべきものです。ただ、化学量・物理量としての「味」と心理量ともいうべき「旨い」は、同じではありません。人間の心理にも「旨さ」のパラメータがいくらかあり、「旨さ空間」は「味空間」と密接に関係しながらも、独自の広がりを持っているのです。

 で、ゲームの場合です。
  ゲームの楽しさは、味覚のような、感覚細胞に由来する状態はありません。しかし、心の作用として「楽しい」をもたらすという点では、食べ物のおいしさと同様のことがいえるでしょう。「面白い」を感じるための基本となるパラメータが何種類もあり、特定の「面白さ」は、その空間の任意の点を占める座標であるということです。これは「頭の中に快感空間が広がっている」と捉えることもできます。そして、食べ物が味空間内においてそうであるように、ゲームも「快感空間内に存在する幾何ベクトル」と捉えられるでしょう。
  このベクトルは、刺激として働きます。全く未知のベクトルは刺激を強く感じてしまいます。基本的に警戒心を持ってしまうため、プレイヤーはある程度似通ったベクトルを好む傾向があります(1)。とはいえ、同じ刺激ばかりを繰り返し受けていると、だんだん感覚が鈍っていって、あまり反応しなくなります(2)。そして新しいベクトルも、その強い刺激自体は本質的に快感である可能性が高いわけで、何かのきっかけから受け入れるようにもなります(3)。
  これが、だいたい好みのジャンルがある理由(1)であり、同じゲームばかりやっていると飽きてしまう理由(2)であり、新しいジャンルを開拓していく理由(3)です。また、単にデータを差し替えただけのゲームをやっても新作として楽しむことが難しい理由も、ここにあります。それは、空間上の位置は別の場所かも知れませんが、ベクトルとしては同じになってしまうのです。
  さて、快感空間は、経験と共に発展してきます。「旨さ」における珍味類と同じようなものです。これは、面白さを表すための変数が増えたということです。
  初めてゲームに触れたとき、今から思えば他愛のないものでも、すごく面白く感じられました。極端な話、テレビ画面上のキャラクターが自分の操作で動くというただそれだけで楽しかったのです。しかし、少し進めていくと、スコアや面クリアなど、成果が出ないと楽しさが感じられなくなります。やがて、ビジュアルやサウンドへの注文、ストーリーラインへの期待、ソフトウェアとしてのパフォーマンス、実にたくさんの「面白い」パラメータが増えていき続けることになります。


 ◆進化論からの仮説


 ホイジンガの時代とは異なり、現代では「遊び」も社会的な重要テーマとして扱われます。文脈によっては「人間の精神がもたらす高度な喜びである」などと持ち上げられたりしますが、実際のところ、人間だけのものではありません。野生動物のコドモが遊んでいる姿はテレビの自然番組でよく見かけますし、犬や猫なら、成獣になっても遊びが好きです。私たちの大先祖も、そうした「遊び好きの野生のサル」だったことは、想像に難くありません。その意味で「遊びが文明よりも先」というホイジンガの主張は、言われてみれば当然ですね。
  ラフ・コスターは著書『「おもしろい」のゲームデザイン』(オライリー・ジャパン、2005)の中で、「動物にとっての遊びは、生きていくための練習である」という視点を提示しています。そして、人間の遊びもまた進化の過程の中で獲得してきたものとの視点に立って、ゲームにおける面白さを論じています。
  文明の発展した今ではイメージしにくい面がありますが、ヒトは本来狩猟動物です。ただ、食肉目などとは異なり、それほど高度な身体能力を持っているわけではありません。そこで、持っている要素でなし得る独特の狩猟手段がとられました。
  具体的には、頭脳戦・集団戦が基本になります。例えばマンモス狩りをする場合、サーベルタイガーなら「においで探し出し、鋭い牙で噛みつく」となりますが、人間は違います。移動時期やルートなど、さまざまな予測を行って獲物を見つけます。また、落とし穴などの罠も用意しておきます。その上で、獲物の群から一頭を孤立させ、罠に追い込んで動けなくしておいてから、石を投げるなどして仕留めるのです。たくさんの個体がいろいろな役割で参加してこの狩りを行います。

 このような狩猟を行うための能力は、200万年ぐらいの人類史を通じて高められていきました。ダーウィン原理=「有利な特性を持った個体の生存確率は高くなり、繁殖成功率の向上に繋がる結果、種内でのその特性の存在比率が大きくなっていく」が働くためです。ではそれは、具体的にどのような能力なのでしょうか。
  勇気や攻撃心などの個人的な資質は、(全員にではないものの)不可欠です。また、道具を使いこなしたり罠をこしらえたりするためには、器用さも欠かせません。
  そして、推理力。獲物を探すためには、これが重要です。残された痕跡から獲物の種類や規模そして今いる場所を推測したりすることが、ハンティングには重要になるからです。季節や天測などの情報の重要さも考えると、推理の前提となる知識の獲得それ自体も重要な能力となるでしょう。
  複雑な作業の連携のためには、コミュニケーション能力が不可欠になります。特に全体を統括するリーダーには、人を率いていく力が必要です。これが乏しいリーダーしかいない群れは、生存競争に勝つことはできないでしょう。
  このような知見にたったうえで、ゲームを考えて見ましょう。すると、それがまるで野生動物のコドモたちと変わらないように、見えてこないでしょうか。
  動物にとっての遊びは、「生き抜くための練習」です。ライオンのコドモが食べる気もないのに昆虫などを追いかけたりしますが、それを通じて将来の狩りに備えているわけです。その目的は学習でしょうが、赤ちゃんの場合同様、動機は「楽しいから」に尽きます。
  ゲームには、いろいろな種類があります。一つ一つを見ても、狩猟生物たる人間にとっての「生きるための練習」だといえるでしょう。戦略シミュレーションなどの分野も、集団で狩りをする社会的な動物としての人間にとって、リーダーであることを模擬体験できる、またとない遊びなのです。

 また、他の動物との違いとして特に指摘できるのが、「情報」との関わりです。生き物全体にとって、情報は具体的な行動を起こすための前提として重要なものですが、人間にとってのそれは単なる動因であることを超え、あたかも独立した実在であるかのように扱うものとなりました。
  例えば、私たちは他人から話を聞くだけでも、その情景を思い浮かべることができます。これは、古老の経験談などを聞いて参加していない狩猟を"経験"するのに役立ったでしょう。その代償として騙されやすさも身に着けてしまいましたが、それがもたらすメリットはデメリットよりも大きかったため、ダーウィン原理によって私たちの性質に組み込まれることになりました。
  ここにいたると、フィクションというもの全体が、進化論の結果もたらされたものであるということができます。

 ◆ 創作にどう活かすのか


 あれこれと興味の尽きないテーマですが、この辺りで終わりにしておきましょう。
  ゲーム業界は、元来職人肌の強かった世界ですが、だからこそこうしたアプローチは重要です。とはいえ私たちは実務家ですから、スコラ的な議論に熱中しているべきではありません。さまざまな理論は、自らの創作のために役立てるべきなのです。そこで、今回展開した議論を「どう役立てるのか」という方向でまとめ、区切りにしたいと思います。

 カイヨワの4分類は、チェックリスト的に役立ちそうに思えます。というのも、現代ゲームはカイヨワの言う4要素を兼ね備えた存在であるからです。例えば『グランツーリスモ』。実在する自動車をデータ化し、リアルな物理モデルに基づいて運動させる、レースゲームです。これは、ドライビングシミュレーションだという点でミミクリーであり、公平なルール化で行われるレースだという点でアゴンです。それでも勝負はやはり時の運で、スタート前から勝敗が解っているほどに必然的ではありません。つまり、若干ながらアレア要素も含まれています。そして何より、描画の美しさ。スピード感ばかりか浮遊感すらも感じます。すなわち、イリンクスです。
  アナログゲームの時代、こういうものは不可能でした。コンピュータゲームの時代が来ても、本質的には変わりませんでした。コンピュータのできることは、素人の期待に比べ、圧倒的に小さなものだったためです。結局、ゲームは引き算で作っていくしかなく、どこかに絞り込む必要があったのです。しかしコンピュータの支えを高度に受けることができる現代では、従来対立していたような4つの要素を同時に満たすことも可能です。
  である以上、自分が構想したゲームの面白さは、カイヨワの4分類でどのように位置づけられるものなのかを、ゲームデザイナーは自問する必要があるでしょう。重大な抜け落ちが見つかるかも知れません。また、あえて引き算を行う場合も、「その要素を省略する変わりに、どの要素の面白さが強化されるのか」を明確に意識しておく必要があります。

 発達心理学の考えは、「何が面白いのか」において重要です。
  ゲームには「斬新さ」という価値基準があり、これを追いかけているとつい目新しさばかりを狙った企画になりがちです。しかし、どんなに興味深いテーマを扱っていたとしても、肝心のゲームプレイが面白いものでないと、プレイヤーは続けてくれません。ゲームデザイナーとしては、感覚的水準の面白さは何なのかを、考えておく必要があるのです。
  第3回で、ダメなゲームアイデアについて例示しましたが、この発達段階説の知見が、裏付けになると思います。いくらテーマが興味深くても、肝心のゲームプレイが「マウスでクリック」だけでは、なかなか始めてもらえないでしょう。社会的な遊びではあっても、感覚的遊びとしてはゼロのようなものだからです。むろん、それが十分楽しめるレベルのものであれば、ソーシャルゲームがそうであるように、人々に受け入れられることはあるでしょうが。

 快感空間理論は、いろいろな経験知に根拠を与えてくれるものだと思っています。これから行う創作では、さしあたり「新しいゲームを作るため」の"融合"についての教訓を与えてくれるでしょう。
  アイデアを生み出す方法はひとつではありませんが、「異なる2者の融合」は、その中の重要な技法です。ただ、融合したつもりが、単に「くっつけただけ」になってしまうことがあります。例えば「格ゲーとパズルゲーの融合」といっても、それが格闘ゲームの間にパズルを組み込んだだけのものなら、単にくっつけただけです。そしてつぎ込む資源が同じであれば、くっつけられた2者は、元よりも確実にスケールダウンしているでしょう。
  これは、「足してから割る」と「割ってから足す」の違いだといえるでしょう。本当の融合は、二つのベクトルを足すことで、新たなベクトルを作るということです。"割ってから足す"をしていたのでは、既知のベクトルの縮小版を集めただけということで、何も新しさを感じさせられないのです《*3》


 ◆物理リアルと心理リアル


 特に注意を払って欲しいのは、アップル流のユーザー観です。
  コンピュータが普及していく過程で「仮想現実性」(バーチャル・リアリティ)という言葉が登場しました。それを得られることがコンピュータの特性であり、コンピュータゲームの行くべき道でもあると論じられたのです。身近な言葉に置き換えれば「リアルに再現すれば面白くなるはずだ」という信念といってもいいでしょう。
  しかし結果はどうでしょうか。これは、以前にも軽く論じていますね。「リアル=面白い」はただの迷信に過ぎなかったことが、いくつもの"野心作"を通じてはっきりしています。私たちにとって快適で創造的な世界は、適切に記号化・抽象化された世界だったいうこと。そして、見た目や形状だけでなく、動きやふるまいといった構成要素にもそれは及んでいたということです。

 まず、物理的なリアルさは、必ずしも心理的なリアルさを感じさせないと言うことを、創作者たるもの知っておかなければなりません。
  本来これは、芸術共通の重要テーマです。例えば印象派の絵画など。精密に描くことを旨としていた従来の風景画や肖像画に対して、「心にとってリアルであるもの」を試行した結果、モネやセザンヌらは輪郭線や物質色にこだわらない技法を編み出しました。映画では、モンタージュ理論が該当します。「全てを見せない」ことで「見えない部分も描く」手法は、今日の映像制作ではむしろ常識化していて、元々特別の手法であったことなど(学んだ人以外は)気づきもしないでしょう。
  ゲームの場合、リアリティなどとても追求しようのない原始的な描写環境からスタートしたということがあり、どうもこのあたりの意識が低いままでした。マシン性能が向上すれば、それにあわせて表現も向上させるのが当然で、二つのリアリティの違いに気づくような状況にありませんでした。特に大きな転機となったのが、プレステ登場後の『ファイナルファンタジー』。影絵芝居と同程度のことまでしかできなかったスーパーファミコンの時代、影絵的方法でなんとかドラマ性を追求していた同タイトルの変貌は、時代の大きな変化を感じさせました。実際の『VII』はまだかなり記号的表現だったのですが、多くのゲーム屋は、"その先"を見てしまったのです。

 心理的リアルというのは、ようは「ユーザーがそう感じるリアルさ」ということです。ただ、これに簡単に妥協してしまったのでは、意味をなさない場合もあります。
  例えば『電車でGO』。電車の運転というのは、見た目それほど難しい行為とは思えませんが、ゲームセンターに登場した同タイトルでのそれは、そう簡単なものではありませんでした。最初のプレイにおいて、これはストレスです。しかし、冷静に考えれば、10両編成で数百トンにもなる重量物を正確に運動させることが簡単なはずはありませんね。プレイヤーの多くは、ゲームを通じてその現実に気づき、それを受け入れた上で、ゲームデザイナーが設定したゲーム性(タイムアップ制など)を楽しんだといえます。これは、「ゲームがプレイヤーを育てた」と見ることができるでしょう。
  同じことは、『グランツーリスモ』などでも言えます。それ以前のレースゲームに比べると格段にフラストレーションを感じさせる操作性ですが、物理リアルをきっちりと追求している点が逆に信頼につながり、ゲームファン以上に自動車ファンの心をつかんだのです。



 ◆ゲームデザインの「さぐり→仮説」モデル


 あれこれ書きましたが、こういう知見が必須なのかというと、正直なんともいえません。ただ、「面白い」について、自分自身の嗜好を離れ、なにかしかの考えをめぐらしていくことは、仕事を預かる人間として持つべき態度であると思います。
  実際のところ、プロジェクトは理論では進められません。
  かつて若い人たちを集めてプロジェクトを指揮していたとき、「適切かつ妥当に処理」という言葉を発明しました。つまり"適当"ということです。このように使います。
    「山田さん、ここのところどうしたらいいですか?」
    「そんなのいちいちきくなよ、適切かつ妥当に処理しとけ」
  無責任な話ですね。でも、これが実はだいじなことです。例え小さな部分でもスタッフの自主的決定を入れておけば、そのゲームには彼らの「面白いと思う」を詰め込むことができます。リーダー一人で判断しても相応に面白くはなるはずですが、そこに入っている「面白い」がたった一人分でしかないことは事実です。せっかく人を集めているのに、もったいない話です。
  とはいえ、たった一人でも、ゼロよりはましでしょう。「誰の"面白い"も入っていないが、指定された手法で作ってみたら、こういうことになった」なんて場合ゼロとしか言えません。トップダウン的なゲームデザイン原理の追求は、この危険があります。

 ゲームの世界でも、ニーズや消費性向といったマーケティングの概念が注目されることが多くなっています。マーケティングの分野では、そうした把握困難なものを数値的に測定するための高度な統計的処理も発達しています。しかし、そうした手法の導入は、あまりいい方法とは思えません。顧客が「よくできている」と感じるゲームは作れますが、「何が何でもそれがプレイしたい」と思えるような、熱狂させるゲームを生み出すことは難しいと思うからです。
  言い換えれば、「損をしないゲーム製作」には役立つということです。しかし、ゲームは娯楽である以上、代用可能なものであってはだめなのです。少なくとも頂点に立つタイトルには「他の娯楽では代用できない」レベルの面白さが必要ですし、頂点以外のタイトルでも、それぞれの部分において「代用不能性」を持っているべきです。

 あれこれ挙げてきましたが、「これが決定版だ!」といえるようなものはありません。ただ、何が「面白い」をもたらすのかについて、直感だけで対応することは、少なくともゲームデザイナーとしては無責任だと思います。ようは、「解の公式」は、ゲームデザイナー各自が見つけ出していかなければならないということ。業界中で共有するような筋のものではありません。  
  とはいえ、難しく考える必要はないと思います。私たち実務家は、人類史に永久に残るような原理原則を見つけ出す必要はありません。有効期限2年程度の"仮原理"を見つけ、1年半ごとに取り替えていけばいいのです。


 ◆現実的な仕事


 ざっと見てきましたが、どう進めていくものなのかを具体的にまとめてみましょう。
  まず行うことは、イメージングです。ゲームシナリオを考えるときに重要なのは、作ろうとしているのがゲームであるのを忘れないということ。小説ではないのです。文章として面白いものを作る必要はありません。そして、ゲームプレイにおいて面白くなければ意味はありません。こんなときに有効なのは、"理論"を探すのではなく、現実を想像してみることです。合理的で洗練された創作理論など追い求めても、幻に過ぎません。泥臭い現実にこそ、正解はあります。実際にゲームが動いている状態を想像してみるのです。ゲームシステムやユーザーインターフェイスが概ね決まっているのであれば、それに即して考えます。決まっていない場合は、既存ゲームの何かを元に考えます。

 こうして実際のイメージをしっかり作り上げてから、ストーリーラインを考えていきましょう。また、並行して、各種設定も考えていきましょう。キャラクターがストーリーラインとは無関係に作られることはありません。しかし、特定のストーリーラインから必然的にキャラクターが導かれるというものでもなく、両者の関係は単純ではありません。
  これは、次のような手順になります。

   1、動いているゲーム画面を想像しながら、作っていく
   2、それを、紙に書いてみる
   3、客観的に検討し、不満な点を書き出す
   4、頭の中の引き出しを探し、バランスに配慮しながら対策する

 これをしつこくくり返していくのです。それは、ごく細かな単位でも行わなければなりませんし、要素ごとにみていく必要も出てきます。そして、それらが積み上がってまとまった量になった段階でも、改めて進めていかなければなりません。
  例えばマイキャラをどう活躍させたいのでしょうか。活躍させるためには、敵をそれにふさわしい形で考えていく必要があります。また敵には単なるザコとそれらを束ねるボスとがいます。ザコは主人公に惨殺されるわけですが、それにふさわしい悪事を働いている必要がありますね。その描写が必要になるでしょう。一方で、ザコを束ねる敵キャラは、まず強くなければならないですし、強さを正当化するだけの設定的な意味を持っていなければなりません。そして、必然的に重要キャラになりますから、マイキャラとの何らかの関わりを持たせてやる必要があるでしょう。こうした点も、描写が必要です。そうした特別な相手が普通に倒せたのでは興ざめですから、主人公側にも倒せるだけの設定的な意味を与えてやらなければなりませんね。そして、それを獲得するための何かも必要で、ここで協力者キャラであるとか、知られざる伝説であるとかを用意しておく必要が出てきます。

 こうした作業は、部分と全体を同時に注意しなければならなくなりますが、これは創作の一般的なプロブレムであり、ゲームだけに存在しているわけではありません。ここに悩むと、つい創作理論に頼りたくなるかもしれませんが、現実的には細かく行ったり戻ったりをくり返すしかないと思います。
  そして、「実際のゲーム」をイメージすることが、迷いがちな仕事における貴重な道標になるとも思います。


 ◆ゲームストーリーに思うこと


 先述のように、入社時の肩書きは「シナリオライター」でした。にも関わらず、私はゲームの仕事におけるストーリー的なものを、かなり抑制的に考えています。
  実は、業界に入ったときには野心満々で、スピルバーグや宮崎駿にも負けないようなストーリーテラーになるつもりでいました。また、『ドラクエ』や『ファイナルファンタジー』をものともしないようなストーリー性豊かなゲームを作り、それを通じて会社をメジャーの地位に押し戻してやろうなどとも考えていました。
  しかし、一人前になる過程で理解していったことは、自制です。ゲームシナリオはゲームのシナリオで、ストーリーではないのです。プレイヤーは、ゲームを楽しみたくてプレイします。本格ストーリー、大いに結構。ただし、それがゲームの楽しみを増すものでさえあれば。戦いなり成長なりに没頭しているプレイヤーに、その流れを差し止めてまで押しつけるべきものではありません。
  そして、ストーリーはゲーム本体と独立して成り立つことはありません。壮大なストーリーを打ち上げれば、必要となるソフトウェアの要素=コードやデータも壮大なものとなってしまい、大規模なプロジェクトでなければ実現することはできません。
  抑えるべきところをそうしないでいたのでは、満足な結果は得られません。消極策は、積極策と比べるとどうも士気が上がらず、また不安さもあります。しかし、人はときとして「がんばらない勇気」を示すことも必要になるのです。

 あれこれ書いてきましたが、やはり目は輝かせて欲しいと思います。そもそも、星目そのものがいけないわけではありません。むしろ、クリエイターにとってそれは不可欠な成分でしょう。創作なんて、冷静に考えればどうしたってリスクばかりなのですから。戒めはあくまでも「星目"がち"」であることに対して与えられているのです。
  「例えこの身が滅びようとも、断固として理想を貫くべし!」
  なんて生き方は、いつの時代も共感を呼ぶものです。でも、実行する場合は、自分自身のリスクでそれをすべきですね。商業ゲームはたいていは"他人のお金"を使って作ります。集団制作ですから、他人の時間も使います。そして、そのお金も、最終的な出所は、プレイヤーのお小遣いですし、できあがったゲームはプレイヤーの自由時間を削り取ることになります。
  映画の世界は逆の価値観が支配的なようで、「いかにわがままにふるまって自分の作りたい物を作りきるか」が監督の重要な素質として語られているように見えます。例えば、ある監督には「鉄道のシーンを撮るために、線路横の住宅を買い取って取り壊した」などのエピソードがあります。"世界の......"なんて二つ名が必ず付けられている権威ですが、現実問題として「必ず大赤字を出す監督」でした。この人がじっとしていれば、単にそれだけで数本分の予算が浮くわけで、それを使って「会社も観客も同時に幸せにする映画」を志向する監督が何人もデビューできたかも知れません。こうして考えると、60年代から始まった日本映画の衰退は、ただの偶然ではなさそうです。そして、日本ゲームの衰退を招きたくないのなら、同じ道を通らないよう、注意しなければなりません。
  もっとも、この真逆もまた困った問題です。例えば、ゲームをしないし興味もない=作品性について全く判断できない人がプロデューサーとして予算を握り、そろばん勘定とアンケートだけで作品内容に干渉してくる......なんてことも、ありそうですね。


*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *
【注釈】

*1 :ホモ・ルーデンス
 ホイジンガの著作『ホモ・ルーデンス』は、本国での刊行は1938年ですが、日本での翻訳版は、1965年に中公新書から発売されました。
  65年というのは、高度成長期まっさかりの頃で、「これからの時代、日本人はもっと余暇を持たなければならない」と官民あげての大号令がだされ、一気にレジャーブームが起こった時期でもあります。本書がたちまち普及したのも、そういう時代の空気あってなわけですが、そもそも遊ぶのにも号令が必要だったというあたりに、濃厚な時代の空気を感じてしまいますね。

*2 :GUIを本格的に取り入れたパソコン・・・
 GUIことグラフィカル・ユーザーインターフェイスは、その名称から「コマンド類を絵的な方法に置き換えたもの」と早合点されがちですが、真の狙いは「素人が直感的な操作で理解できる」にあり、グラフィカルであることは単なる手段です。コマンド名称やその操作方法は、単純なものとはいえ恣意的で、類推で理解していくことはできません。それをグラフィカルに表現することで、「こうかもしれない」と気づかせ、実際の操作でそれを覚えさせるという、「さぐり→仮説」モデルに基づく学習を意図しているのです。
  なお、冒頭の単文は、かなり中略した状態で引用しています。該当部分を省略せずに書くと、次のようになります。


  Apple Desktop Unterfaceは、人間が生まれながらにして好奇心を持った存在であるということを前提としています。好奇心は学習への欲求と言い替えることができますが、学習効果は自分のおかれている環境に自発的な探究心を持って接した場合に最も高くなると言えます。人間は自分を取り巻く環境をコントロールしたいと言う欲求を持っています。これには、自分の行為に対して掌握感を持とうとすること、そして、その結果を確認し、理解しようとする欲求が含まれます。また、意志の疎通には、言語をはじめ視覚や身振りによる伝達手段が用いられているように、人間は記号や抽象表現に慣れ親しんでいます。そして、条件が揃えば創造的で芸術的な存在ともなり得ます。作業や生活の場がエンジョイでき、やりがいに満ちたものであれば、生産性や効率は非常に高くなります。
 


  Macが登場して以来、各社からGUIと環境がリリースされましたが、ほとんどが肝心な点を理解しないまま見た目ばかりをそれっぽくしたものばかりで、さっぱり使い物になりませんでした。マウスオペレーションでありながらキーボードも不可欠という、"手が三本いる"意味不明なOSも多く、使い物になるGUIは結局Macだけという状況は、Windows3.0が登場するまで(=それが画期的だったほどに、他の"もどき"は酷かったのです)続きました。

*3 既知のベクトルの縮小版を集めただけ・・・
 スーパーファミコンの頃、「ステージクリア型の横スクロールアクションゲームと、『ポピュラス』的な箱庭シミュレーションを"融合"させた」と称するゲームがありました。アクションのステージでボス戦闘を終えると、シミュレーションモードが出現するというもので、ステージクリアで得られるポイントを使って都市育成を行うという趣向でした。
  その頃、従来のジャンルには当てはまらない創発的なゲームが注目されていました。このゲームも、おそらく企画書の段階では、伝統的なプレイアビリティと先進のゲーム性が融合した画期的な作品になるはずだったのでしょう。しかし実際のそれは、「2で割ってから足す」の典型例で、中途半端なアクションとシミュレーションがぶつぎれで繋がっているだけという、残念な代物でした。
  そもそも「アクションゲームの得意な人でないと有利に展開できないシミュレーションゲーム」というのは、両ジャンルのプレイヤー層の違いを考えれば、かなりの無理があるといえます。実務では、いろいろな理由から妥協が必要になってきますが、肝心な部分は守っていかないといけません。

 

  広告の世界もそうなんだけどね、コピーライターになりたいっていう生徒に三種類のまちがい人がいる。ひとつはオーソドックスに先輩のまねをする人、もうひとつは先輩がやっても無駄だからやらなかったことを自分では革命だとか冒険だとか思ってやる人。もうひとつは"星目がち"な人たち。この三種類がいるんですよ。
  それを具体的に分ける方法を思いついたの。すごい単純に言っちゃえば星目がちな人たちは恋人にプレゼントする花束を野で摘んでくる人なの。要するに、ヒメジョオンでもわたしがまとめれば可愛いし、心がこもっていればいいと思っている人。もうひとつ、革命的な人たちはドクダミを持ってくる人たち。で、もうひとつは赤いバラとかカスミ草の組み合わせで持ってくる人なの。この三種類のまちがい人がいるわけ。

糸井重里 (宮崎駿『出発点』より;著者との対談から)

 
 
 ◆ はじめに


 連載も2桁になりました。実際の仕事を中心に進めてきた第2部も、今回で終わりです。主に「なんとか的なゲームデザイン」として続けてきましたが、今回の"なんとか"は、「シナリオライター」です。

 冒頭で引用した短文は、対談の中での発言です。糸井重里さんは広告分野の代表的人材で、コピーライター(広告で使用する文章=キャッチコピーや本文を執筆する担当)という専門職の存在を世に知らしめた功績者でもあります。"星目がち"という言葉は、糸井さんならではのネーミングで、ようするに目の中に星がきらきらしてる(しすぎてる)人のことでしょう。
  さて、この「まちがいびと」ですが、ゲームの場合もやはりいるといえます。第1回の中で紹介した"不可解な志望者"たちも、糸井流の3類型でまとめられるでしょう。
  加えて言えば、どの類型に属するのかが、志望職種ごとにくっきりわかれているようにも思えます。
  プログラマ志望者に多いのは圧倒的に「ストレートなまね」です。"***のようなゲームを作りたい"といったあたりからモチベーションを刺激されている場合が多いからでしょうか。実習で出してくる作品も、ファミコン時代のアクションゲームのようなものばかりだったりします。まあ、この職種はそれでよしとする考えもあるのですが、技術屋に絶対必要な要素である「向上心」への作用としてはネガティブに働く場合が多いため、私としては危険な傾向だと思います。
  企画志望者の場合、二番目の「勘違い革命家」が該当します。この分野には「斬新なものはウケる」という素朴な信仰がありますが、それを狙っているうちに、単に「新奇」「珍奇」ばかりになってしまったりするのです。
  そして、三番目の「星目がち」は、やはりシナリオ分野に集中してきます。
  ソフトウェアという工学的な仕組みでできているゲームソフトは、その成り立ち上本質的に理工系なのですが、その中で、シナリオライターという仕事は、例外的に文科系です。また、実際のゲームプロダクトでも、「感動」「泣ける」の類が、肯定的な評価と共に語られる場合も多く、「そういうものを作ることがシナリオライターの役割なんだ」と思いこませるのに十分と言えるでしょう。

 本来、企画とシナリオは別の仕事です。ただ、大きな区分ではまとめられる場合が多く、両方を兼ねる形で仕事をする場合もあります(ex.企画を考え、それが通ったら自分でシナリオを書く)。私自身、会社に入ったときの役職名は「シナリオライター」でしたし、独立後はどちらの仕事もしていました。
  今回は、両要素の境界領域のテーマということになるのですが、内容的にあまり絞りこまず、現実に即した形でまとめていきたいと思います。


 ◆ "シナリオ仕事"の範囲


 まず、論じる対象を考えてみしょう。「シナリオライター的なもの」とは何なのか、です。
  言葉というものは多様です。そして、古くからある言葉であればあるほど、意味スペクトルも広くなってしまいます。
  現実に、日本のゲーム会社で「シナリオ」と呼ばれる可能性のある仕事は、たいへん幅広いものです。ざっと挙げてみましょう。

  Ⅰ.ゲームにおける物語的要素の考案
     ・キャラクターに関する設定
     ・敵に関する設定
     ・武器やアイテムに関する設定
     ・世界観や自然法則に関する設定
  Ⅱ.ゲームにおける「脚本」にまつわる仕事
     ・ストーリーラインの考案
     ・シーンやカットに関する決定
     ・セリフやナレーションおよびト書きの作成
     ・演出や効果音に関する指示
     ・楽曲に関する指示
  Ⅲ.ゲームプレイの進行に関する諸決定
     ・ステージ/マップの全体的な配置
     ・ステージ/マップの設計
     ・獲得スキルの設定
     ・敵などの出現

 海外のゲームプロダクトの場合、シナリオライターの仕事が意味するのはⅡに限られるようです。Ⅰは「ワールドビルダー」、Ⅲは「レベルデザイナー」と、それぞれ別個の役割名が付けられています。また、演出・効果音や楽曲については、他職種との境界領域でしょう。
  ただ、役割名称の問題と、役割を担当する人間の問題とを混同してはいけません。少なくとも日本では、ワールドビルダーもレベルデザイナーも、独立した職種としては存在していないのです。これらの仕事は、それ以外の仕事も含め「企画」と総称され、ゲームデザインと同じ括りで扱われるのが基本です。加えて、このシリーズの基本的立場――「『誰の専門とも言い切れないが、誰かがやらなければならない仕事』を担当するのは、基本的にゲームデザイナー」――を踏まえると、あまり絞り込むわけにも行かないでしょう。
  そこで、まずゲームにおける物語のあり方を一通り検討し、物語の制作について一般的に論じた上で、レベルデザインやワールドビルダーの仕事へと話を進めていきたいと思います。


 ◆ ゲームストーリーの登場


 こんにち、ほとんどのゲームには何かしかのストーリー要素が付いています。これは、一応、コンピュータ化される前のゲームセンターから始まっていると言えるでしょう。
  若い人には意外かも知れませんが、ゲームセンターという場所は、コンピュータの登場以前から存在しています。「エレメカ」と呼ばれる電気仕掛けの遊戯台《*1》が、いろいろな遊びを提供していたのです。それらは、遊び自体は単純ですが、例えば、射撃やレースなど、多くの場合何かを"なぞらえる"という形で成り立っていました。そして、このなぞらえ自体がストーリー要素と言えなくはないものでした。
  ただ、実際のところ、この段階ではまだ言い切ることは、無理があります。何かがモチーフになっていても、基本的に"見立てていた"だけだからです。やがて コンピュータゲームが登場し、順次置き換わっていったのですが、ゲーム性は多分にエレメカ的でした。『スペースインベーダー』(78年)の登場は、ゲーム産業としては一大転機です。しかし、作品の視点からでは、それほどのものではありません。宇宙戦争をモチーフにしたといっても、あくまでも記号的に扱っているだけ。侵略について、何らかの物語が与えられていたわけでもないのです。

 このような状況が変わったのは、ブームもひとしきり落ち着いた80年頃です。単なる見立てやなぞらえではなく、明確なストーリーを与えられたゲームが、続々と登場してきたからです。
  例えば『ドンキーコング』(81年)。ゲームそのものは、障害物を避けたり壊したりしながら前進していくシンプルなものでしたが、
   「巨大な類人猿が、女性をさらって建設中のビルに逃走した。
    主人公はそれを追いかけ、妨害を避けながら、女性の解放をめざす

  というストーリーが用意されていました。また各キャラクターにも「マリオ」「レディ」など、固有名詞が与えられてもいました。
  『パックマン』(80年)はもっと記号的なゲームでしたが、四体の敵がキャラクターとして設定されていた点は、マリオを凌ぎます。それぞれ名前が付けられ、性格付けも施された上でアルゴリズムに反映されていたからです。
  シューティングゲームも、同様です。例えば『ゼビウス』(83年)には、とてもこの場では引用しきれないような壮大なバックストーリーが用意されていましたし、同じナムコの『ボスコニアン』(81年)では、当代きってのSFイラストレーターの手による壮大なポスターが制作されていました。つまり、プレイヤーが闘う世界に関する物語が用意され、登場する敵や背景のデザインなども、その世界観に基づいてまとめられていたのです。多少の音楽(ジングルといったほうが言い程度の短いものですが)も付くようになり、映像作品的な外観を獲得していきました。


 ◆ ストーリーフローのあるゲーム


 以上のようないきさつは「象徴としてのストーリーの導入」ということができるでしょう。
  ただ、こんにち言うような「ストーリーゲーム」との間には、まだまだ決定的な違いがあります。ステージはあっても、ただひたすら繰り返すだけという場合が多いのです。例えば『ドンキーコング』。スロープの面があり、ベルトコンベア、ジャッキと続いた後、最終面となって、コングと対決します。では、それをクリアしたら? 何もなかったかのように最初のスロープ面に戻ります。
  その時代のゲームはだいたいそんなもので、僅かな数の面を多少難易度を上げながらループし続けるのが当たり前でした。少し時代が下がる『ゼビウス』になると、物語構成的な変化もないわけではなく、最終ボスとされる存在が要所要所に出てきたりもするのですが、これは決して倒すことはできず、永久に逃げ続けます。そして、16面が終わると、また1面に戻ります。
  一方、同じ黎明期でも、パソコンゲームでは全く別の事情が存在しました。「アドベンチャーゲーム」という、まさにストーリーフローそのものを楽しむタイプのゲームが、普及していたのです。
  これは、当時のパソコンの性能に由来しています。パソコンゲームにおいても、初期の主流はやはり反射神経型ゲームだったのですが、リアルタイムの描画性能が高くなかったため、性能的にどんどん向上していくアーケードに比べ、見劣りするものにしかなりませんでした。一方で、メディア容量の制約の少なさやテキストの処理が得意など、アドベンチャーゲームにおいては逆に見栄えの良い商品を作ることができました。結果として、パソコンゲーム市場は後者を中心としたものになっていったのです。

 やがてゲームは今日あるような方向に進んでいくのですが、「二者が融合した」というよりは、動作環境の向上などがもたらした必然的変化といえそうです。コンシューマは、かつてはアーケードに沿ったゲーム性が主流でしたが、しだいにやり込み要素を重視するようになりました。やがてストーリーフローを持つものが増え、『ドラゴンクエスト』を嚆矢とするRPGのブレイクで決定的になりました。以後、マシンの性能向上は、主にストーリーメディアとしての側面で用いられるようになったのです。
  ただ、一色に染まったというわけではありません。例えば格闘ゲームにストーリー展開があっても、それはゲームの中心的価値ではなく、位置づけは『ドンキーコング』の頃とそう違うわけではありません。
  類型化すれば、次のようにまとめられるでしょう。

  1「記号型」:ストーリーはなく、デザイン上の見立てとして
          モチーフが設定されている。
   2「象徴型」:作品性に深みを与える目的で、
          象徴的な扱いのストーリーが与えられている。
   3「進行型」:ストーリーフローがあり、
          それを進行させる形でゲームプレイを行う。
   4「展開型」:多様性のあるストーリーフローが用意、
          プレイヤーの行動で選ばれていく。  

 ストーリーを作るということも、2までであれば、借り物でもなんとかなります。現に『ドンキーコング』のストーリーは、映画『キングコング』から借りてきたといっていい程度のものでした。しかし、3以上のレベルではストーリーフローを作っていく必要があり、「創作技法」として意識していかなければなりません。


 ◆物語作法の誤解


 世の中には、どんな分野でも、方法を指南してくれる本があるものです。AmazonでAND検索をかけてみたところ、「物語+書き方」で22件もヒットしました(なお、小説+書き方では124件、シナリオ+書き方では55件でした)。
  そうした本ですが、多くの場合「物語はトップダウンで書く」が前提になっているように見えます。つまり、次のような段取りが想定されているように読み取れると言うことです。

  1.日頃から、書きたいと思っている分野を用意しておく
   2.そこから「これを書く」という題材を、作品規模とあわせて決める
   3.両条件をふまえて、作品の核になるテーマを抽出する
   4.テーマを実体化するためのコンセプトを選び出す
   5.作品世界を構成する諸要素を設定する
   6.キャラクター(主人公や敵も含め)を設定する
   7.「起承転結」とか「序破急」とかいった構成を決め、細分化する
   8.特に中心となる事件と、そこにいたるまでの伏線を決める
   9.それぞれのパートの中身を作っていく

 ただ、こんな決めつけがなされると、一言言いたくなりますね。アイデアのとき(第3章)と同じく、こう問いかけたいのです......「あんた、ほんとにそんな順番で作品作ってるのか?」

 物語作法がこのようにまとめられているのは、実際のところ、本というメディアの制約でしょう。
  実際の物語作成は、もっともやもやしたものです。あらゆる場面で行きつ戻りつを繰り返しながら進めていく、泥臭いプロセスです。ただ、本というのは、もやもやをもやもやのまま書くことはできません。解りやすく明確な言葉を選んでいく必要があり、そこで、著者自身が実際に行っているプロセスとは別に、説明用に一本筋の通った記述をしていくことになるのです。
  というわけで、よどみない流れとして描かれているのは、単にそう記述してあるというだけのこと。それを「著者がそのように主張している」としたのでは、読み間違いです。
  ただ、そんな誤読が発生する理由は、作者が想定する読者像とのずれにあります。
  こうした本は、読者が多少の創作体験を持っていることを想定して作られます《*2》現実との差分は、読者自身が自分の創作経験に基づいて補えばいいという前提で書かれているのです。想定されている水準は本によってまちまちですが、「入門」と銘打っているのなら、"ノートに書き殴って友人間に回覧"程度でも十分でしょう。
  逆に言えば、その程度の経験すらない人では、誤読の可能性も断然高くなってしまいます。そういう人は、読む前に書くべきなのです。


 ◆ストーリーの基本原理


 では、ストーリーフローは、どう作ればいいのでしょうか。
  どうもこうもありません。「作る」こと、それが全ての始まりです。「創作理論」と称するものを主張する人もいますが、ストーリーには方程式の類はありません。理論とやらのほとんどは作家ではなく評論家や学者がまとめたもので、実際にはできあがったものに対する後知恵に過ぎないのです。《*3》
  むろん、よくないストーリーに対し、「なぜよくないのか」の理由を羅列することはできます。そのいくつかを裏返せば、定石みたいなものもまとめられるでしょう。しかし、そうした教訓を集めたところで、創作に結びつく建設的な理論にはなってくれません。ストーリーは多様なもので、面白いか面白くないかは相互関係によっていくらでも変わってきてしまうからです。ある作品においては美点だったものが、別の作品に投入すれば欠点になってしまうということが、たいへん多いのです。

 ただ、だからといって「何でもあり」というわけではないのは、先に挙げた程度の創作体験があればわかることでしょう。依拠すべき、そして拘束もされる、基本原理と呼べるものがあります。次の2つです。

   1:場面場面が面白くなければならない。
   2:読者(観客/視聴者/プレイヤー)は必ず飽きるから、
     対策を講じておく必要がある。

 1の条件が満たされていれば、とりあえずは受け入れてもらえます。そして「続きを見たい」という気持ちになってもらえます。一方、これがないと、何も始まりません。まさにストーリーの第一原理です。
  ただ、人には「飽きる」という基本属性がありますから、どんなに面白いものでも、それが続いているといずれ飽きてしまいます。そこで、何らかの対策を講じておかなければなりません。物語の展開というのは、そのためにあります。そして、同じパターンばかりが続くとそれはそれで飽きてしまうため、展開を展開させる"メタ展開"も必要になるでしょう。また「実はこうだったんだ」のようなサプライズも織り交ぜる必要があります。そうしたものが集まったときに相互に矛盾してしまうようでは、読者がしらけてしまいますから、設定を体系として構築することも必要になってきます。こちらは第二原理ですが、かなり発展性がありますね。

 多くの理論先行型ストーリーテラーが陥ってしまうのは、1よりも2を重視することです。場面の面白さに配慮しないまま、物語の構成や設定といったものをどんどん進めていってしまうのです。甚だしい場合は、本来"飽き対策"の一手法に過ぎない「世界観」を、物語自体の目的であるかのように思いこんでしまいます。
  これは、読者としての感動体験が脚を引っ張っているのかも知れません。しかし、世界観、構成、テーマといったものは、見てもらったその先にあります。例えそれらが優秀であっても、場面が面白くない作品は、そこまで進まないうちに放棄されてしまうのです。自分が読者として感じた面白さがそこだったとしても、それは「読み終わっての感想」ですね。作者は、読んでいる最中の読者に対して面白さを提供し続ける必要があります。

 

 ◆ 物語構成の正体


 では、世間で説かれるような物語構成という概念は、全く意味のないものでしょうか。実はひとつ、大きな役割があります。「説明」です。
  多くの場合、ストーリーは説明する必要があります。特に映画やゲームのような集団製作を前提にするものだと、作っていく初期の段階から、それが必要になります。そのときに漫然と全体を書き連ねたのでは解りづらくなってしまいます。そこで、定型的なフォーマットにあてはめることが、意味を持ってくるのです。
  近年、多方面で多用されるのが、「導入部」「展開部」「終結部」の3パートに分ける構成です。物語の基本要素―舞台や登場人物とその価値観・世界観などをおおまかに知ってもらうのが導入部。いろいろなことが起こり、話が展開していく部分が展開部。そして、クライマックスからエンディングまでが集結部です。《*4》
  例えば「桃太郎」を、この三部構成の方式でまとめると、次のようになります。

  導入部:
    「桃から生まれる」という不思議な出生を持つ若者、桃太郎。
    拾ってくれた老夫婦に育てられ成長していく中で、
    人生上の目標を模索するようになった。
    悩んだ結果「鬼退治」にそれを見いだすと、養父母に願い出て、
    僅かな装備品だけを持ち、旅を始めた。

  展開部:
    旅に出た桃太郎は、やがて仲間と出会う。
    キビ団子一個という僅かな報酬で命をかけた戦闘に従ってくれる、
    犬、猿、雉である。
    本来は互いにいがみ合うはずの彼らを統率しつつ、桃太郎は鬼ヶ島に到達する。

  終結部:
    強力な鬼たちに対し、桃太郎軍は宴会のさなかに奇襲を敢行、一方的に叩きのめす。
    鬼のリーダーは桃太郎に降伏、財産と引き替えに助命を申し出た。
    荷車いっぱいに宝物を積んで、凱旋する桃太郎軍団。
    その行き先は、養父母の待つ家だった。

 この三段構成が先にあるという意味ではありません。現実の創作はもっともやもやしていますし、面白さを追求して作ったストーリーは、こんなにすっきりしたものにはならないのです。ただ、説明のためには、四角いものを丸く見せる工夫も必要です。
  もちろん、こうして書ける程度の変化すらないような物語では論外です。「物語は展開させなければならない」こと自体に気づいていない本当に未熟な書き手には、"起承転結"も"序破急"も、標語としてじゅうぶん役に立つことでしょう。


 ◆レベルデザイナーとしての仕事


 さて、話を少し戻します。
  先に挙げた第一原理「場面場面が面白くなければならない」ですが、これはどのように満たされ得るものでしょうか。作家が小説を書くときであれば、物書き的な要素によって満たすのが基本でしょう。しかし、ストーリー一般に拡げて考えた場合、それはたくさん取り得る回答のひとつに過ぎません。
  例えば漫画であれば、絵が良ければ1の条件は満たされます。あくまでも「良い」なので、必ずしも「上手い」でなければならないわけではありません。下手でも、魅力的ならいいのです。ただ、とりあえず見てもらえる度合い、そして「飽きる」までの余裕という面では、やはりうまい絵は有利です。アニメなら、これに加えて動きという要素もあるでしょう。かわいい女の子がかっこいいロボットに乗って派手な戦闘をしていれば、とりあえず観てもらえますね。
  ゲームの場合も同様です。キャラクターがリアルタイムに動くというただそれだけでも、さしあたってはだいじょうぶです。そして、キャラの見栄えが良かったり動きが気持ちよかったりすれば、そうでないものよりは有利です。設定だの必然性だのは、とりあえず関係ありません。「ありきたり」であることも、たいした問題ではありません。

 結局これは、第二原理「必ず飽きるから、対策が必要」にとっても同じです。プレイヤーは必ず退屈するわけですが、そのときに提供する"退屈退治"は、別にストーリー的な仕掛けである必要はないのです。ステージが変化するとか、モンスターの種類が変わるとか、自分自身に新しい技が出せるようになるとか、そういうことでも十分です。
  もちろん、これらはストーリー上の変化とフィックスする場合が多いでしょうが、必須ではありません。例えば、RPGにおけるキャラクターのレベルアップなど。ストーリーとは無関係で、また、簡素かつ本質的な退屈対策といえるでしょう。

 レベルデザインという仕事は、直接的にはマップに関するデザイン・レイアウトを中心とする仕事です。マップを作り、モンスターや各種仕掛けを配置(それを考えるという要素もしばしば含みます)していくということです。
  それが目的とするのは、プレイヤーの獲得するレベルのコントロールにあります。プレイヤーがゲームプレイにおいて持つ欲求はさまざまですが、それを「より高い能力になりたい」に落とし込んだ上で、それをコントロールしていくということです。欲求は、いちどに満たされてしまったのでは、面白くありません。そこで、段階的に充足させてあげることで、より高い満足感を、プレイヤーに与えることができるのです。
  ストーリー的な仕掛けというのも、それを補完していくための手札と考えることができます。ストーリーフローを作る場合、そうしたレベルデザイン段階での使いやすさも配慮していく必要があるでしょう。



 ◆ワールドビルダーとしての仕事


 ワールドビルダーは、いわゆる「世界観」に直結した仕事です。ゲームの背景となる世界を考え、設定として実体化していきます。直接的な造形はデザイナーの仕事ですが、ワールドビルダーは、彼らに示すコンセプトを考えなければなりません。
  こうした役割から見ると、必要とされる局面はレベルデザインよりも多いといえます。象徴的にストーリーを扱う場合でも、世界観を必要とするゲームは多いからです。例えば、格闘ゲーム。ゲームプレイにおいて特に物語的な展開があるわけではなく、キャラどうしが蹴ったり殴ったりしあってるだけですが、そんな場合でも世界観は存在し、キャラクター設定もそれに基づいてなされていますね。

 この仕事をする人は、やはり豊富な知識を持っていないといけません。
  一般教養と言ってもいいですが、世間で言う教養とは、若干ベクトルが異なっていることも事実です。特に重要になる場合が多いのが、古代から中世にかけての歴史・文化でしょう。今日のゲームは幅広い時代を扱いますが、「中世ヨーロッパっぽい架空の世界」は、やはり定番的なのです。とりわけ、歴史の教科書に出ていないようなことにこそ、注意が必要です。王侯貴族の種類であるとか、武器甲冑や軍隊の仕組み、教会のシステムなどです。
  また、ファンタジー分野における先行作品に関する理解も、十分持っていなければならないでしょう。『ドラクエ』などの定番的なコンピュータゲーム、そしてその作り手がリスペクトしている、より古い世代のゲーム(『ウィザードリィ』『ウルティマ』など)は当然視野に修めておくべきですし、コンピュータゲーム以外の代表的な作品についても同様です。『指輪物語』や『クトゥルフ神話』程度は知っておくべきでしょう。
  もちろん、こうした領域だけではなく、自然地理とか民族の文化とかあるいは文学芸術とか、世間的意味での一般教養も、浅く広く知っているべきでしょう。また、一般的にゲームで使われる概念(SFやミリタリーなど)だけではない領域で何か得意分野を持っているということが、作り手としては重要だと思います。私自身は、政治経済にはかなりの自信があります。また、医学や生化学なども、強い方です。どちらもあまり使う機会がありませんが。

 ただ、主客を転倒させてはいけません。ワールドビルダーにとっても、役割の目的は「ゲームプレイの充実」であり、「壮麗な世界の構築」ではないのです。ゲーム世界の設定は、必然性や正当性ではなく、ゲームとしての面白さを価値基準にしなければなりません。また、ゲーム全体としては、システム的に考えることが重要です。魔力に関する属性とか、キャラクターの能力を定義するためのパラメータといったものは、システムであり、同時に世界でもあります。
  先にプレイヤーの欲求について述べましたが、シナリオには、その能力向上の実体化という側面があります。単に数値やフラグとしてのみ示されるだけでは喜べなくても、作品世界の中での意味が与えられれば、楽しさをもたらします。特定のタイミングで何かを与えることはレベルデザイナーの役割ですが、このような意味でプレイヤーの関心を惹きつけるのはワールドビルダーの役割です。


 ◆現実的な仕事


 ざっと見てきましたが、どう進めていくものなのかを具体的にまとめてみましょう。
  まず行うことは、イメージングです。ゲームシナリオを考えるときに重要なのは、作ろうとしているのがゲームであるのを忘れないということ。小説ではないのです。文章として面白いものを作る必要はありません。そして、ゲームプレイにおいて面白くなければ意味はありません。こんなときに有効なのは、"理論"を探すのではなく、現実を想像してみることです。合理的で洗練された創作理論など追い求めても、幻に過ぎません。泥臭い現実にこそ、正解はあります。実際にゲームが動いている状態を想像してみるのです。ゲームシステムやユーザーインターフェイスが概ね決まっているのであれば、それに即して考えます。決まっていない場合は、既存ゲームの何かを元に考えます。

 こうして実際のイメージをしっかり作り上げてから、ストーリーラインを考えていきましょう。また、並行して、各種設定も考えていきましょう。キャラクターがストーリーラインとは無関係に作られることはありません。しかし、特定のストーリーラインから必然的にキャラクターが導かれるというものでもなく、両者の関係は単純ではありません。
  これは、次のような手順になります。

   1、動いているゲーム画面を想像しながら、作っていく
    2、それを、紙に書いてみる
    3、客観的に検討し、不満な点を書き出す
    4、頭の中の引き出しを探し、バランスに配慮しながら対策する

 これをしつこくくり返していくのです。それは、ごく細かな単位でも行わなければなりませんし、要素ごとにみていく必要も出てきます。そして、それらが積み上がってまとまった量になった段階でも、改めて進めていかなければなりません。
  例えばマイキャラをどう活躍させたいのでしょうか。活躍させるためには、敵をそれにふさわしい形で考えていく必要があります。また敵には単なるザコとそれらを束ねるボスとがいます。ザコは主人公に惨殺されるわけですが、それにふさわしい悪事を働いている必要がありますね。その描写が必要になるでしょう。一方で、ザコを束ねる敵キャラは、まず強くなければならないですし、強さを正当化するだけの設定的な意味を持っていなければなりません。そして、必然的に重要キャラになりますから、マイキャラとの何らかの関わりを持たせてやる必要があるでしょう。こうした点も、描写が必要です。そうした特別な相手が普通に倒せたのでは興ざめですから、主人公側にも倒せるだけの設定的な意味を与えてやらなければなりませんね。そして、それを獲得するための何かも必要で、ここで協力者キャラであるとか、知られざる伝説であるとかを用意しておく必要が出てきます。

 こうした作業は、部分と全体を同時に注意しなければならなくなりますが、これは創作の一般的なプロブレムであり、ゲームだけに存在しているわけではありません。ここに悩むと、つい創作理論に頼りたくなるかもしれませんが、現実的には細かく行ったり戻ったりをくり返すしかないと思います。
  そして、「実際のゲーム」をイメージすることが、迷いがちな仕事における貴重な道標になるとも思います。

  
 ◆ゲームストーリーに思うこと


 先述のように、入社時の肩書きは「シナリオライター」でした。にも関わらず、私はゲームの仕事におけるストーリー的なものを、かなり抑制的に考えています。
  実は、業界に入ったときには野心満々で、スピルバーグや宮崎駿にも負けないようなストーリーテラーになるつもりでいました。また、『ドラクエ』や『ファイナルファンタジー』をものともしないようなストーリー性豊かなゲームを作り、それを通じて会社をメジャーの地位に押し戻してやろうなどとも考えていました。
  しかし、一人前になる過程で理解していったことは、自制です。ゲームシナリオはゲームのシナリオで、ストーリーではないのです。プレイヤーは、ゲームを楽しみたくてプレイします。本格ストーリー、大いに結構。ただし、それがゲームの楽しみを増すものでさえあれば。戦いなり成長なりに没頭しているプレイヤーに、その流れを差し止めてまで押しつけるべきものではありません。
  そして、ストーリーはゲーム本体と独立して成り立つことはありません。壮大なストーリーを打ち上げれば、必要となるソフトウェアの要素=コードやデータも壮大なものとなってしまい、大規模なプロジェクトでなければ実現することはできません。
  抑えるべきところをそうしないでいたのでは、満足な結果は得られません。消極策は、積極策と比べるとどうも士気が上がらず、また不安さもあります。しかし、人はときとして「がんばらない勇気」を示すことも必要になるのです。

 あれこれ書いてきましたが、やはり目は輝かせて欲しいと思います。そもそも、星目そのものがいけないわけではありません。むしろ、クリエイターにとってそれは不可欠な成分でしょう。創作なんて、冷静に考えればどうしたってリスクばかりなのですから。戒めはあくまでも「星目"がち"」であることに対して与えられているのです。
   「例えこの身が滅びようとも、断固として理想を貫くべし!」
  なんて生き方は、いつの時代も共感を呼ぶものです。でも、実行する場合は、自分自身のリスクでそれをすべきですね。商業ゲームはたいていは"他人のお金"を使って作ります。集団制作ですから、他人の時間も使います。そして、そのお金も、最終的な出所は、プレイヤーのお小遣いですし、できあがったゲームはプレイヤーの自由時間を削り取ることになります。
  映画の世界は逆の価値観が支配的なようで、「いかにわがままにふるまって自分の作りたい物を作りきるか」が監督の重要な素質として語られているように見えます。例えば、ある監督には「鉄道のシーンを撮るために、線路横の住宅を買い取って取り壊した」などのエピソードがあります。"世界の......"なんて二つ名が必ず付けられている権威ですが、現実問題として「必ず大赤字を出す監督」でした。この人がじっとしていれば、単にそれだけで数本分の予算が浮くわけで、それを使って「会社も観客も同時に幸せにする映画」を志向する監督が何人もデビューできたかも知れません。こうして考えると、60年代から始まった日本映画の衰退は、ただの偶然ではなさそうです。そして、日本ゲームの衰退を招きたくないのなら、同じ道を通らないよう、注意しなければなりません。
  もっとも、この真逆もまた困った問題です。例えば、ゲームをしないし興味もない=作品性について全く判断できない人がプロデューサーとして予算を握り、そろばん勘定とアンケートだけで作品内容に干渉してくる......なんてことも、ありそうですね。


*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *


 次回からは第3部をスタートします。長く続けてきたこの「エクセレント」も、いよいよ終盤ということです。
  気を引き締めてがんばっていきますので、よろしくお願いします。
  

【注釈】

*1 :"「エレメカ」と呼ばれる電気仕掛けの遊戯台
 エレメカについては、バンダイナムコのサイト内の次の記事が、ある程度詳しく説明しています。
     http://www.bandainamcogames.co.jp/gallery/ayumi/archive/elemecha/index.html
  また、Googleで「エレメカ」を画像検索してみてください。これに限らず、さまざまなエレメカの写真を見ることができるはずです。

*2 :こうした本は、読者が多少の創作体験を持っていることを想定して
  これは「教え」の一般的な問題と関わってきます。
  何かができるようになるというのは、それほどすっきりしたものではありませんが、とりあえず短い明確な言葉を与えておく必要があります。例えば野球の指導など、こんな感じです。
   「バットを短く持て。それから球をよく見て、力まず振り抜くんだ!」
  これは、全くの未経験者には意味不明でしょう。でも、日頃からバットを振り回している野球少年相手には、必要十分ですね。反面、毎日数時間グラウンドで過ごしているようなプロを目指す高校球児にこんなことを言ったのでは、反発されることは必至です。結局、アドバイスは相手を選ぶ必要があるのです。

*3 理論とやらのほとんどは作家ではなく......
  創作理論の嚆矢は、アリストテレスの『詩学』でしょう。ただ、古代を代表する哲人の権威にひれ伏してしまう必要はありません。アリストテレス自身もまた、創作をしていなかったのですから。
  なお、この種の本を何冊か読んだ結果として感じたことなのですが、作家、特に大物であればあるほど、ノウハウよりも態度や心がけといった部分を中心にまとめているように思われます。「書く気になれなくても毎日決まった時間机に向かおう」とか「よそ行きの言葉を使わず書こう」などといったことが体験混じりで手厚く説かれているのですが、構成だのキャラ立てだのといった実技部分はあまり言及されていなかったりするのです。そして、分類や類型化を得意げに展開するのは、多くは作家でない(あるいは作者として名を聞いたことがない)著者ばかりです。
  ただ、これには「指南書はどうあるべきか」に関する哲学の違いがありますので、私としても「ノウハウ論はダメ」と言い切っている訳ではありません。

*4 :「導入部」「展開部」「終結部」の3パートに分ける構成
  ストーリーフローを明確に区切るのは、演劇の伝統といえます。舞台劇では、場面を変えるためにはセットを入れ替えなければなりません。そこで、いったん幕を下ろして大がかりな入れ替えをする「幕」(シーン)と、舞台を暗くしてその間に小規模な入れ替えを行う「場」(アクト)という、二通りの区切りがあったのです。当然これらはそう頻繁に入れるわけにはいかず、必要最低限に留める必要があります。
  映画は当初「演劇の記録」として生まれたため、演劇技法も継承されました。しかし、本来そういう物理的制約に縛られないところに映画の良さがあるわけで、やがて従来型の構成に囚われない細かなシーン割りが導入されるようになり、シーン/アクトの概念も、用語としてのみ踏襲されるようになっていきました。
  なお、最近はこの三段構成に対して、能などの伝統芸能で使われている言葉「序破急」という言葉をあてる論者が多く見受けられます。しかし私は、この使い方に賛成できません。というのも「序破急」は、作品をまとめる技法の一つとして実在するものだからです。三段構成は、実際にはもっと細かく別れているものを3つにまとめているということで、本質的に架空の存在です。両者の混同は、それぞれの狙う意味の混乱に繋がります。安易な混用は避けるべきです。

 

  デザインは必ず動詞から始めます。まず技術ありき、という考え方を捨てます。話したがりの自尊心を抑制します。ユーザーのアクションには素早く反応します。動詞を論理的なグループにまとめます。使用頻度の高い動詞はすぐにアクセスできるようにします。ツリー構造は、できるだけ均等にします。大局を見てデザインするようにします。誤った期待を持たせないようにします。何を言いたいのか明確にします。問題を説明するのではなく、解決策を提示します。1つの声で5種類の口調を使い分けます。

クリス・クロフォード『クロフォードのインタラクティブデザイン論』オーム社P.101より

 
 
 ◆ 僭称者たちへまず一言


 第1章でも書きましたが、"教育業界"には実に不愉快な人たちがいます《*1》。ゲーム会社におけるグラフィックス担当者を勝手に「ゲームデザイナー」と称し、学科名称に付けたり、パンフレットの「卒業後の進路」に記載したりする手合い="ゲームデザイン僭称者"たちです。
  ゲームデザイナーという言葉は、自然発生的に登場してきましたが、現在では確立した用語です。そういう場合、たとえ読み取れる別の意味があったとしても、使わないのが良識。例えば敬称のつもりで相手に「貴様」なんて呼びかける人はいませんよね。「"ゲーム"のグラフィック"デザイナー"だから」なんていうのは、「"貴"も"様"も敬語だから」といっているのに等しい屁理屈です。そして、感じる憤りも、いきなり貴様呼ばわりされたのと変わりません。
  言葉の背景には、長年にわたる関係者の取り組みが存在しています。いくつもの議論が積み重ねられ、ようやく意味が確立されているのです。例えば、ゲーム開発者の世界会議であるGDCでは、「Game design」は、「product」や「visual art」などと並んで、扱われる6つのメジャーテーマの一つとして位置づけられています。"ゲームプロダクトをどう運営していくのか"などと同格の重要テーマであるとの認識があり、現代のゲームはこうした理解に支えられて作られているのだと言えます。
  本来、教育機関は、ゲーム界の一翼を担う立場です。である以上、こうした動向にちゃんと目を向け誠実な態度をとって欲しいと思うのですが、彼らの進んでいる方向は全く逆。先日、文部科学省の予算で作られている人材開発をテーマにした報告書の表の中に、職種区分として「ゲームデザイナー(2Dデザイナー、3Dデザイナー)」などという項目があるのを発見しました。中央官庁の持つ政治力まで動員して、黒を白だと言いくるめようとしているものに思えてなりません。

 さて、わざわざこんな話から始めなければならないのは、今回の話題が、まるで彼らの主張を裏付けるかのようにとられてしまうおそれがあるからです。
  第二部になってから、「ほんにゃら的なゲームデザイン」というタイトルのもとで書いてきたあれこれは、多くの場合その"ほんにゃら"とゲームデザインの境界領域の話でした。時には境界どころか純粋に"ほんにゃら"の話であったりもしました。で、今回です。「デザイナー的なゲームデザイン」の名で語ろうとするのは、グラフィックデザイナーの仕事とゲームデザイナーの仕事の境界線部分にあるあれこれなのです。

 ◆ 企画におけるビジュアル


 まず話の取りかかりとして、企画職にとっての「グラフィック力」――絵や図を描いたり、文書や画面をレイアウトしたり配色を決めたりと言った能力――の位置づけを確認してみましょう。
  不要か必要かと言えば、一応必要です。しかし、重要かどうかといえば、実はそれほど重要ではありません。

 第5回「ゲームデザイナーの条件」では、「図を描ける」「レイアウトができる」を、会話や文章と同レベルの基本的スキルとしてあげています。
  これはこれで、大事なことです。
  言葉だけでは伝えにくいことを伝達するためには、図が必要になります。
  文書にとって「読みやすい」の重要性は言うまでもないでしょう。文章そのものが解りやすく書かれていなければなりませんが、それをまとめた文書の方においても、魅力的に見せる工夫が必要です。
  そして、企画書では、具体的な画面の案を示す必要があります。
  ただ、これらはプレイヤーに見せるものではなく、制作者側で内部的に利用されるだけです。ゆえに、絵としての魅力は、必要はありません。重要なのは、「読みやすい」「解りやすい」なのです。
  魅力ある絵を作るためには、ひらめきなど、勉強だけでは届かない部分が重要になります。ところが、読みやすさ・解りやすさを目的とする場合は違います。この要素は、相当部分が研究済みなのです。知識として確立された「読みやすい/解りやすい」があるわけで、企画屋であれば、これをきっちり学ぶことで到達できるレベルの画力があれば十分だと言えるでしょう。
  これはいわば"楷書のデザイン"です。面白みには欠け、ユニークさも出しづらいのですが、基本中の基本です。グラフィックデザイン自体を仕事にしている人なら"草書のデザイン"もできなければなりませんが、企画屋は基本を押さえていれば十分なのです。

 では、ゲーム本体で使うグラフィックスについては、完全に専門職に任せきってしまっていいのでしょうか。
  このあたりは性格にもよるのでしょうが、私としては自分が全く知らないことを他人に預けてしまうのは嫌です。「できるけど今イチ」「できないけど解っている」であれば委ねても問題ないのですが、知らないままというのは、気持ち悪くて嫌なのです。実際、企画屋は、上がってきた原型のいい悪いを判断しなければならないことが、しばしば発生します。全く解らないのだとしたら、イエスかノーで答えるしかありません。しかし現実の仕事では、共同作業で着地点を探っていかなければならないことが大半です。
  この種の気持ち悪さを感じそうなら、ちゃんと勉強した方がいいですし、それには自分が作者として取り組んでみるのがいちばんだと思います。例えば「ゲームデザイン学科」において、選択科目としてCGの科目が存在するのは十分に意義のあることでしょう。

 とはいえ、実は"デザイナー的な"において重要なことは、こうした部分ではありません。「ゲーム画面を作る」ということは、実際には単に「絵を作る」こととは異なる次元の問題を含んでいるからです。

 ◆ ユーザーインターフェイスを作る


 ゲーム画面というものは、とにかく見続けられる存在です。現代のメジャータイトルは、百時間以上のプレイ時間が想定されていますが、この間ずっとプレイヤーは画面を見ています。『スターウォーズ』の全エピソードを通して見たってせいぜい13時間程度ですから、途方もない水準と言っていいでしょう。
  なぜ、こんなに長時間、見ていられるのでしょうか。絵としてスターウォーズの数倍優れているからではありません。それが、プレイヤーにとってゲーム世界に向けて開かれた唯一の窓口だからです。見ていないことにはゲームが続けられないから見ているのです。

 コンピュータでのユーザーによる入出力のあれこれを、「ユーザーインターフェイス」という言葉で呼びます。《*2》
入力の中心にあるデバイスは、ゲーム機の場合、キーパッド。数個のボタンと2本の方向スティックという組み合わせが、今日では基本でしょう。パソコンであればキーボードやマウスが、DSやiPhoneならタッチパネルが、これに該当します。プレイヤーは、これらのデバイスを通じて、システムに指示命令を伝えます。
一方、出力は、映像+サウンドです。振動などもありますが、補助的なものでしょう。実際のデバイスとしては、テレビなどの機器が用いられます。これらを通じて、システムから情報が与えられるのです。
入力と出力は、実際には一体的です。プレイヤーは出力を得つつそれを元に入力を行い、システムは入力をリアルタイムに処理して出力していきます。ゲームにおけるユーザーインターフェイスは、このような相互的なやりとりとして把握する必要があります。

 さて、ユーザーインターフェイスという視点からゲーム画面を考えれば、それが単なる絵でないことは、明白でしょう。
  画面上の構成要素には、しばしばなんらかの"ふるまい"があります。ボタンやアイコンが現れ、選択などを求められます。また、メイン画面上にもそれを操作することで何らかの入力ができるインタラクティブな構成要素(=コントロール)が配置されることがあります。そして、これらの結果、画面モードやプレイヤーの状態などが変化したりします。画面をデザインするということは、そうしたふるまいも含めてデザインするということなのです。
  もちろん、画面の中心的機能は、プレイヤーへのインフォメーションの提供です。世界の状態......自分がどんな場所にいて、そこがどうなっていて、どこにどんな敵がいるのかなどは、(ゲームの種類により具体的か抽象的かの違いはあるものの)第一には画面で示されますし、アイコンやサブウィンドウあるいは文字・数字の直接表示などによって、補助的に伝えられます。ただ、この場合も何をどう提示するのかはゲーム性に直結する問題で、絵としてかっこいいかどうかで決めているわけではありません。
  単に絵があればいいというだけなら、グラフィックス担当の仕事でしょう。一方、ソフトウェアのふるまいを実際に作るのは、プログラマの役割です。しかし、ユーザーインターフェイスのデザインという視点からこの作業を見ると、どちらとも違うと言わざるを得ません。
  本連載の最初の回で書いたように、<b>「誰の専門とも言い切れないが、誰かがやらなければならない仕事」を担当するのは、基本的に企画屋</b>です。ゆえに、ユーザーインターフェイスのデザインは、基本的にゲームデザイナーがしなければならないものなのです。

 ◆ デザイン対象としてのUI


 実際のゲームを念頭に置くと、ユーザーインターフェイスのデザインは、非常に広範囲な作業となります。
  これは、起動してから実際に遊び始めるまでのプロセスを考えれば、解るでしょう。起動画面があり、キャラメイクなど初期の設定を行って、いよいよゲームに。そしてゲーム中も、戦闘画面やステータス画面など、さまざまな画面モードを切り替えながら進めていくことになります。ユーザーインターフェイスのデザインには、こういう画面の遷移やコマンドの階層といったグローバルな構造も含まれますし、個々の画面構成要素の形状やふるまいなども当然対象になります。極端な話、アイコンやコントロールのデザイン・アニメーションまで含まれてくるのです。そして、何を見せ何を隠すかも判断しなければなりません。
  冒頭短文の引用元である『クロフォードのインタラクティブデザイン論』は、ソフトウェア一般を対象にユーザーインターフェイスのデザインを説いた本ですが、決してノウハウ集の類ではありません。1テーマだけの本とは思えない高い密度で、非常に深く書かれています。理解の前提になる知識も、文系理系を問わない広範な分野に属するものです。

 デザイナーにとって大事なのは、「テンプレートに押し込めない」ということです。ソフトウェアのふるまいやユーザーに求めるアクションについて、「この分野ではこうすることになっているから」で決めてしまうのではなく、しっかりした根拠を持つと言うことなのです。このあたり、前回指摘した"様式"問題と共通します。そちらでは「面白いかどうか」がキーワードでしたが、こちらでは「使いやすいか」(使うにあたって適切か)が求められると言えるでしょう。
  もちろん、見た目の美しさも、使いやすさの一部ですし、ときには引き替えにすることもあるかもしれません。ただ、そのような検討なしで行った制作は、例えどんなに美しかったとしても、デザインとは言えません。

 多彩で多様なテーマですが、一つ注目ポイントを挙げれば、「"使われる物"であることへの十分な配慮」です。
  そもそも、ソフトウェアは『装置』です。「文書を作る」「データを処理する」といった目的を達成するために使うものです。この本質は、ゲームの場合も違いはありません。プレイヤーが遊ぶための装置なのです。
  さて、"使われる物"には、重要な条件があります。使いやすいものでなければならないということです。
  そして使い方を示唆する形状をしている必要があります。例えばノブが付いているドアを開けるとき、引き戸のようにスライドさせようとする人はいません。ノブをどちらかに回した上で、押すか引くかをやってみるでしょう。ドアノブというデバイスが、その使い方を示唆しているのです。今日のユーザーインターフェイスにおいてメタファー(比喩)が多用されているのは、ここから来ています。画面上にボタンの絵が描かれていれば、押す(クリックする)ものであることが一目でわかりますね。
  そしてもう一つ言えるのは、「何をすれば何がおきるか」の予測が付くということ。ある処理を理解したら、その類推で、他の処理も理解できるというようなものです。
  ただ、「道具」といわずして「装置」という点に、問題の一端が伺えますね。かなづちやノコギリも何らかの目的を達成するためにありますが、これは装置ではなく道具です。手にとれば、ある程度使い方も解るでしょうし、使っている人が近くにいれば、見よう見まねでやってみることができます。ところがソフトウェアは道具ではなく装置で、見ているだけでは使えるようになりません。

 ◆使いこなしのシナリオ


 「ユーザーインターフェイスのデザイン」というテーマは、道具レベルと装置レベルとでは、かなり違う様相を呈してきます。個々の画面やコントロールのデザインであれば、道具レベルの問題で済むでしょう。しかし、ソフトそのものは、装置として捉えなければならない複雑さを持つ場合が大半です。
  ちゃんと使うためには、ユーザーは手順を踏んで使い方を理解していかなければなりません。この手順は、作り手によって、ソフトウェアの操作体系の中に組み込まれるものですが、どのように組み込むかによって、そのソフトの使い勝手は全く変わってしまいます。逆に言えば、いいソフトを作るためには、いい手順を組み込まなければならないということです。
  これについて私は近年「ソフトウェア・シナリオ」というものを考えています。
  これはユーザーに対するシナリオです。まずそのソフトを使うユーザーを考え、その人が実際にたどるであろう道筋を想定します。そして、それにふさわしい形で各要素を配置していくのです。ユーザーは、ソフトを使いながら成長し、最終的に「使いこなしている人」になるわけですが、そこにいたる道筋をユーザー任せにするのではなく、ユーザーがたどるべきシナリオとしてきちんと想定した上で、デザインの中に組み込んでいくということです。

 そもそも"使われる物"のデザインには、具体的ユーザー像を想定することが、本来不可欠です。しかし、ソフトウェアではあまり重視されていませんでした。......彼/彼女は、まず最初にマニュアルを読む。そして、全ての機能とコマンドを十分に理解したうえで、ソフトを使いはじめる。「そのソフトを使って何をするのか、何ができるのか」といった問題は、導入を決めた時点で明確であり、それまで別の方法や他のソフトを使って進めていた仕事は、ただちに新ソフト上に移行され、投じた資金(=ソフトの値段)にふさわしい見返り(=能率向上)を、手にし始めることができる......と、こんなきわめて観念的なユーザー層が想定されていたのです。
  現実にはどうでしょうか。マニュアルを全く無視するような人は少ないのですが、多くは熟読する前にまずソフトを起動してみるでしょう。そして、過去の経験を元に、あれこれいじってみるはずです。高機能なソフトでも、そのソフトの全てを最初から使おうとはせず、まず使える機能を理解して、限定的な形で自分の仕事に適用していくでしょう。また、「そのソフトを使って何をするのか、何ができるのか」への見通しも、多くの場合明確なものではありません。映像編集ソフトを買う場合、「子供の運動会ムービーをデスクトップで編集したい」といった意味での"使用目的"は持っています、具体的にそれがどういうソフトウェア操作を意味するのかまで理解しているとは限りません。そういうことは、あれこれやりながら理解していく......これこそが、ユーザーの実像でしょう。
  これは「ソフトを使いながら成長していく」ユーザー像と言えます。

 ゲームの場合、アクションなど反射神経で楽しむものは、ある意味単純明快です。しかし、シミュレーションのように主に大脳で楽しむものでは、かなり複雑な操作を必要とする場合がありますし、その複雑さ自体が楽しみの素という場合もあります。
  ただ、より多くの人に本気でプレイして貰うためには、初心者をどうやって上級者に育て上げていくのかを考えなければなりません。それには、ただ丁寧なマニュアルをつけておけばいいなどということはなく、ソフトウェアそのものをシナリオを意識して作っていくべきなのです。

 ◆ソフトウェアと美


 さて、ソフトウェアのデザインですが、ここまでの説明とはまた異なる側面で、追求すべきことがあります。「美」です。
  もちろんユーザーインターフェイス(の、特に画面)では、美しさは重要です。汚い画面のゲームはプレイする気が起きませんし(品質自体が低いように感じられてしまいます)、その美しさも作品性にふさわしいもの(=雰囲気を盛り上げるということですね)でなければだめでしょう。しかし、ここでいう美しさは、その意味ではありません。
  本シリーズの第1章では、機能と美という二面を示した上で、見えるものと見えないものとがあることを論じました。これはデザイン一般の価値観です。元来<b>デザインの美というものは、見えない部分にも及ぶ</b>のです。
  例えば建築ファンが何かの建築物をすばらしいと思うとき、その外観だけに惹かれているわけではありません。ニューヨークにかつてあったワールドトレードセンター・ツインタワーは、外観的にはただの四角い柱です。それが高い評価を集めたのは、内部構造とそれを導入させたコンセプト、さらには裏付けとなる哲学の部分にあります。《*3》

 実は「美しい」は、ソフトウェア関係者......特にプログラマにとって、重要な判断基準です。プログラムは、直接的にはコードとして表現されます。その背景にはアルゴリズムがあり データ構造があります。またターゲット機のアーキテクチャによって導かれます。これらは工学的な仕組みですが、同時に、美が宿るものなのです。《*4》
  このような価値基準は、70年代あたりから始まっています。高級言語が使われるようになった結果、プログラムは言語的な創作物であると認識されるようになりました。そして、「美しく書かれたプログラミング」ということが、重視されるようになったのです。
  そもそもは、実用性から来ています。可読性の高いソースは、工業としての生産性を高めるからです。そして、直接のソースだけではなく、システム自体のアーキテクチャといった部分も同様です。洗練されたアーキテクチャは、何よりも理解しやすく、使いやすいのです。これが積み重なっていくことで、次第に価値基準として独立し、感覚としての"美しい"が確立されていったのだと考えられます。

 このあたり、実例から離れて論じることは難しく、取り組んだ経験がない人を説得する自身はありません。ただひとつ指摘できることがあります。私たちは、数学的な調和に対し、美しさを感じるということです。
  対称性のあるもの。リズムを持つもの。構造化されたもの。そして論理的なもの。それらは、そうでないものと比べた場合、あきらかに美を感じさせます。実用性ばかりではなく、審美性においても、私たちは対称な配置を好むのです。こうした美はあくまでもその関係性自体に感じている美で、形そのものへの美観とは異なります。
  初学者には実感が持てないかも知れません。しかし、この美意識の存在は、とりあえず信じてください。

 ゲームデザイナーは、ソースコードの美までは共有することはありません。しかし、システムそのものの美しさには、直接の責任を負う立場です。こうした価値観およびそれが存在する理由について理解し、自分自身の持ち物の一つとしている必要があるでしょう。

 ◆ 本気で目指すのなら


 ゲームデザイナーという仕事は、『ウィザードリィ』でいえばビショップのようなものかもしれません《*5》。新卒で最初から就くこともできますが、いったん別の職種で経験を積んでからジョブチェンジするという道もあります。
  私の場合は最初から企画屋でしたが、年代の近い同業者(多くが90年頃までに業界に入っています)の中でのジョブチェンジ組の比率は、決して小さくありません。10人集まれば、そのうちの5人は「元プログラマ」で、3人が「元グラフィッカー」といったところでした。残る2人に属する私自身にしても、創作者としての修行は主にマンガを通じて行ったといえますので、並べた場合は後者に近いということになると思います。
  しかし、「グラフィックスをバックボーンにしているゲームデザイナーがいる」という事実を、「ゲームプロジェクトでCGを担当する人がゲームデザイナーである」という妄言に結びつけるのは、やめて欲しいものです。
  そもそも、時代背景が違います。昔のグラフィッカーは、領域ならではの専門性は、さほど必要としませんでした。ファミコン/スーファミの表現力では、それを必要としなかったのです。デッサン力も、それほど高度なものは要求されず、反面ゲーム好きであることは事実上の必須条件となっていました。職種間の差異が少ないから、スムーズなジョブチェンジができたのです。今日のグラフィックス担当者は、何よりグラフィックスにおいて専門家であることが求められます。

 ゲームというのは、何かの代用品ではありません。一部、ゲームを「映画の一種」と捉える立場があり、それもファミコン/スーファミの頃はただの比喩だったのが、昨今では真顔でそう主張する人も見受けられるようになっています。しかし、勘違いも甚だしいと言わざるを得ません。<b>ゲームはゲームであって、映画ではない</b>のです。映画のための技法はあれこれ参考になりますが、主語と目的語を逆転させたのでは本末転倒です。
  とはいえ、ひとつ言えることがあります。登山道は、登り口は別々でも、頂上に近づくにつれ次第に同じ道に合流していくということです。
  また、今日「ソフトウェアのデザイン」が求められるのは、必ずしも工学的な領域ばかりではありません。インタラクティブなメディアとして多用されるのはウェブやFLASHコンテンツなどですが、これらは存在自体がグラフィックスとプログラムの両領域の重なりだと言えるでしょう。

 例え、僭称的なゲームデザインコースに入ってしまった場合でも、本章で指摘したあれこれを理解し、自覚を持ってさまざまな機会を捉えていけば、「ソフトウェアのデザイン」をするための能力も磨いていけることでしょう。このことは、特にゲームとは関係のないグラフィックス専攻課程にいる人にとっても同じです。
  そして、逆側にも真はあります。ちゃんとしたゲームデザインコースに属している人も、「ゲームデザインとグラフィックデザインは全く異なる」という事実を、自分が勉強・修行を怠けるための理由に使ってはいけないということです。それが有用な知識体系であることを理解し、自分自身で活用法を見つけ出すつもりで、能力獲得に向けて努力していくべきものなのです。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *
【注釈】

*1 :"教育業界"には実に不愉快な人たちがいます
   実際には教育業界にいるのではなく、広告業界にいるのでしょうね。しかし、学校の名前で公にしている以上「広告屋が勝手にやったこと」というわけにはいかないでしょう。  本文におけるこのあたりの表現は、かなり過激です。ただ、そうならざるを得ないのです。なぜなら、ゲームデザインをバックボーンにしている私としては、彼らの言は「おまえなど、おらん!」と言われているのに等しいからです。  なお、世界規模でビジネスを展開している会社では、"日本でしか通用しない職種名"がかなり前から問題視されています。工学院のパートナーである(株)バンダイナムコゲームスの場合、グラフィック職種を「ビジュアル・アーティスト」と呼びますが、これは世界標準にあわせた呼び方に他なりません。手前勝手な"ゲームデザイナー"の定義は、この国のガラパゴス事例をまたひとつ増やすことに他ならず、責任ある機関のとるべき態度ではないと言えるでしょう。

*2 : 「ユーザーインターフェイス」という言葉で......  詰めて「ユーザインタフェース」と標記する場合があります。工業用語の標記ルールでは、語末の音引き記号を省略することが多く、"ユーザー"と"インター"にそれを適用しているのでしょう。いわばコンピュータを"コンピューター"と書かないようなもので、技術屋方言といって構いません。  なお、工学用語としての「インターフェイス」は、異なるシステムの境界になる部分を差して用いられます。コンピュータではソフトウェアでも用いられ、特にオブジェクト指向プログラミングにおいて重要な概念になってきます(ちょっと簡単にはいきませんので、これ以上の説明は避けますが)。

*3 内部構造とそれを導入させたコンセプト......  具体的には、フロアの途中に柱がない「チューブ構造」というものです。エレベータなどの区画を中央に集め、主にそこに強度保持をさせることで、他の柱を不要としたのです。フロアを広く使えることから、施工主には歓迎されたのですが、採用した理由はそれではありません。「取り壊して建て替えることが、ただの頑丈な箱よりも容易」というもの。この背後には「都市は生き物である」という哲学があります。どんな建物もいずれば古びますが、このとき壊しにくければ廃墟になってしまいます。それを避け、街の生命力を守るためには、取り壊し時まで考えた設計が必要であるとの思想が込められているわけです。  周知の通り、ツインタワーはテロリストの攻撃によって崩壊し、今はもうありません。飛行機衝突の衝撃が分散されることなく集中した上、航空燃料が内部で炎上、その結果、チューブの強度が一気に失われてしまったためと言われています。哲学を悪用されたと言えるでしょう。

*4 :プログラマにとって重要な判断基準  実際には、工学全体の価値基準かも知れません。以前、ある自動車評論家が"最近のエンジン周りの設計はなっとらん"と批判しているのを読んだことがあります。マニホールド(エンジンからの排気をマフラーに導くためのパイプ)を、滑らかな曲線ではなく、直線部分を延長したような不自然な繋がりにしてしまっている例が多すぎるという主旨でした。  私は車の設計に関しては素人ですが、それでもスバル・インプレッサのエンジンルームをみると、美学へのこだわりのようなものを感じます。逆に、三菱ランサーエボリューションのエンジンルームはいただけません。補機を、隙間を見つけてはごちゃごちゃと詰め込んだような感じで、どうも下品です。  だからといって、車好きなら承知の通り、両者の性能にはほとんど違いはないのですから、本当にどうでもいい部分ですね。

*5 :『ウィザードリィ』でいえばビショップ  魔法使い系と僧侶系の両方の魔法を覚えることができる職業です。一見便利そうですが、ものすごく成長が遅いため、実際にパーティーに加えると足手まといになる傾向がありました。このゲームでの転職は、基本パラメータが一定値以上になればいつでもできるため、まずは魔法使いか僧侶のどちらかで全魔法を覚えさせてから転職させるのが、使いたい場合の基本だったと言えます。  ゲームデザイナーに置き換えて考えてみると、あちこち示唆に富んでいるように思えてしまいます。

 

 客は徹底的に素人です。素人は絶対に自分の好みを揺るがしにしませんから。きれいな絵、きれいなねーちゃん、きれいなヌード......きれいなもの、ぱっと見れば見た瞬間は気持ちいいです。が、2回見ますか? 不思議と2回、3回見ていいものは、きれいなだけのものでは絶対にないんですよ。そこは忘れていただきたくない。――――おそらく、クリエイター、アーティスト、作り手が生身に持っている「俺はこれが絶対なんだよね、お前ら!! これ!」というものが封じ込められていないものは、どんなきれいなキャラクターやストーリーを作ろう、やはりだめなんじゃないのかな。

    
    
  富野由悠季
  ITメディアニュース(http://www.itmedia.co.jp/news/)2008年10月31日記事
  
「「お前らの作品は所詮コピーだ」――富野由悠季さん、プロ論を語る 」より

 
 
 ◆ 遊ぶための装置として


 私の好きな建築家ル・コルビュジェの言葉に、こんなものがあります。

   「建築とは、人が暮らすための装置である」

 一般人としては「当然だろ、なんでわざわざそんなこと格言にするんだよ」だと思いますが、世の建築家志望の若者にとっては、ほとんど身も蓋もない言い方とも言えるでしょう。というのも彼らの多くは単なる建物が造りたいわけではなく、芸術として人の心を揺さぶるようなものを造りたいと思っているからです。
  言葉には、裏側を見ることが必要です。ル・コルビュジェが実際にデザインした建物は、とても「装置である」なんて言えるような無味乾燥なものではなく、思いっきり芸術的なのです。ただ、その芸術性の基準を、既存の建築様式や"芸術的であるもの"概念には求めなかったということです。「それは人が暮らすための装置である」ということを第一原理として掲げ、突き詰めて考えたうえでゼロから形を作っていったのです。
  ともあれ、ゲーム屋である私も彼をリスペクトし、次の言葉を唱えましょう。

   「ゲームとは、人が遊ぶための装置である」

 ゲームの歴史はとても浅いのですが、それでも様式あるいは"芸術的であるもの"は存在するように思います。「ゲームって、こういうふうにまとめるものでしょ」という要素が既にいくつも確立され、無反省なまま使われてしまっているということです。
  ひとつひとつの要素は、導入された過程では、意味のあることだったでしょう。しかし、単なる様式となってしまっているなら、捨て去る勇気が必要です。人が遊ぶための装置であるという第一原理を、突き詰めて考えていかなければなりません。

 「アーキテクト」という言葉は耳慣れないものと思いますが、辞書的には「建築家」を意味します。ただ、ここでは"仕組みを作る人"という意味で考えています。「ゲームデザイン」の中には、「ソフトウェアの設計」もあれば「メディア作品の造形」もあります。しかし、この両方で全てというわけではありません。ここでいうアーキテクトは、そのどちらでもない、純粋にゲームデザインである部分を組み立てる人、というようなニュアンスです。
  コンピュータでは、設計思想のことをアーキテクチャといいます《*1》。ここでは、ゲームにおいて、ソフトウェアとしてのそれではなく、遊ぶための装置におけるアーキテクチャを作る人という意味合いで、理解していただけたらと思います。

 ◆ 様式=お約束


  先述の"様式"という言葉ですが、ゲームではむしろ「お約束」と言った方が解りやすいかもしれません。
  例えば、RPG。狭いはずのダンジョンなのに、1区画だけで何匹ものドラゴンが住んでいます。魔法使いが唱えた呪文は敵だけを焼き払います。そして、どんなに激しい攻撃を加えても、金や宝箱には何のダメージもなく(そもそもモンスターがなぜ持っているのかはともかく)手に入れることができます。フルプレートの重装備でも移動能力には全く影響がなかったり、瀕死の状態でも最高能力で戦闘できたり。冷静に考えると、かなり不条理な世界ですが、特に疑問を感じることなく受け入れていますね。
  これらはゲーム性の本体部分ですが、ユーザーインターフェイスにもお約束は支配しています。近年のRPGに多いスタイルは、3Dで描かれたフィールド+マイキャラの画面の上に、2Dのキャラ絵とテキストウィンドウをオーバーラップする(&声優によるボイスも)というもの。このとき、キャラクターが戦闘中だろうがどんなダメージを受けていようが表示されるキャラ絵に違いがなかったり、同じ決めゼリフを戦闘ごとに聞かされたり、また数人組で歩いているはずなのに画面にはひとりしか表示されなかったりと、さまざまな"納得ずくの不条理"が登場してきます。
  以上、RPGを例にとりましたが、異なるジャンルでも同じです。アクションゲームとはこういうものだ、シューティングゲームとはこういうものだ......そんな感じで、一つ一つの要素がなぜそこにあるのか考えられたわけではなく、「だってゲームってこういうものでしょ?」と前例を踏襲するように受け継がれているのです。まさに様式化しているわけです。

 実はここに挙げたようなRPGのお約束は、昔のマシンの性能限界から来ています。
  これらのゲームが確立したのは、ファミコンの時代です。ゲームに特化した機能が実装された優秀なハードでしたが、しょせんは8ビット機で、できることは限られています。三次元で表示したくとも、どうにもならないのです。そこで、代替手段として、アニメや漫画には観られない独特の表現技法が発展してきました。
  以後、スーパーファミコンになり、さらにPCエンジンなどCD-ROMドライブ装備のマシンへと移る中、できることも少しずつ広がっていきました。ただ、劇的な変化ではなかったため、新機能の実装も、従来の様式に新要素を上乗せするような形となりました。バストショット絵やボイスなどがその典型例です。
  現在は、3Dゲーム機の時代です。また、メモリーも外部記憶メディアも格段に大きくなっています。技術的な制約はとっくにぬぐい去られていますが、いちど確立してしまった様式は簡単には消え去ってくれません。フィールドはスプライトからポリゴンキャラに変わったものの、バストショットやボイス&テキストは相変わらずオーバーラップされる、そんなインターフェイスがまかり通っています。確立されてしまった様式が、ずっとゲーム界を支配し続けているわけです。

 とはいえ、単に技術的なブレークスルーを追いかければいいのかというと、そう単純な問題でもありません。
  プラットフォームの性能が大幅に向上したプレステの時代以降、それは実際に起こりました。「リアルにすれば面白くなる」かのように勘違いしてしまう関係者が少なくなかったのです。企画書にはそんな文字が飛び交い、実際そんなつもりのゲームが作られましたが、結果は多くが悲惨なものでした。

 ◆ ボードゲームから考える


 そもそも「リアルにする」というのは、エンジニアリング(技術)の課題です。硬派な数理系プログラマにとってはチャレンジングなテーマかも知れませんが、ゲームデザイナーとしては、彼らに「よろしくね!」とお願いするしかないわけで、どうも情けない話ですね。自分にできる手段で、ベストを尽くせるようにならなければなりません。
  ここでゲームデザイナーとして参考になる領域があります。ボードゲームです。第2回で行った分類で言えば、「道具式ゲーム>ボードゲーム>模擬・象徴型」ですね。

 ボードゲームといってもあれこれあるのですが、筆頭に挙げられるのは『モノポリー』でしょう。1930年代の発売以来版を重ね、世界選手権も毎年開かれていて、既に「競技」と言ってもいいくらいです。日本では、現在タカラトミーが発売元になっています《*2》
  モノポリーの本体は、1枚の四角いボードです。外周部分が40のマスで区切られていて、プレイヤーはサイコロ2つを振り、時計回りで周回していきます。スタート時点で一定額の資金があり、後は周回するごとに決まった額がもらえます。
  ゲームは、プレイヤー間のお金のやりとりで進んでいきますが、その軸になるのは、マスに設定された権利です。
  多くのマスは、土地や会社の権利と結びつけられています。もし、誰のものでもない土地に止まった場合、決められた権利金を払って権利を獲得することができます(購入しない場合は、競売にかけられます)。一方、誰かが権利を持つマスに止まったら、そのプレイヤーにお金(レンタル料)を支払わなければなりません。
  なお、プレイヤー間の取引は常時認められています。土地の権利を揃えるときも、他のプレイヤーから売ってもらったり交換したりを活用します。当然値段は交渉で決まりますから、いい土地の最後の権利を持っていたりした場合、高値で売りつけることができるでしょう。

 さて、『モノポリー』の勝利条件は、「自分以外の全プレイヤーを破産させること」です。これはどのように実現していくのでしょうか。決め手は、レンタル料にあります。土地・会社は、独占することによってより大きな利益を得られるようになっているのです。
  土地の場合、同じグループ(2・3マスで構成)の権利を全て取得すると、レンタル料が倍に上がります。また、そこに家を建てることができ、同様にレンタル料も上がっていきます。家は4軒までで、フルに建てた次にはホテルに建て替えが可能です。レンタル料も、家が建つごとにどんどん上がります。例えば中程にある「ケンタッキー通り」の場合、単独では18ドルですが、揃っていると36ドル、家が建っていると1軒で90ドル、以下250・700・875となり、ホテルが建っていると1050ドルになります。単独の場合の、実に60倍近くです。
  もし払えなかったときは、自分の持つ権利を使ってお金を用意しなければなりません。他のプレイヤーに売るか、それを抵当に入れて銀行からお金を借りるかということです。前者の場合、いくらで売れるのかは交渉次第です。後者の場合、返すまでの間はレンタル料が入らなくなってしまいます。
  そうしてお金を用意しても払いきれなかった場合、破産となります。破産したプレイヤーはゲームから除外され、土地などの権利は、他のプレイヤーに渡ることになります。

 このゲームが志向したのは、独占資本主義です。
  普及した時代が、世界恐慌の頃と重なっている点に注意してください。市場を独占することで好き放題の価格設定を行い利益をむさぼることができる社会を、モデル化しているのです。

 ◆ もうひとつのメジャータイトル


 1930年代に登場した『モノポリー』は、いわばスタンダードナンバーのようなもので、同じゲームモデルを採用したさまざまな製品が存在しました《*3》。日本では、『はなやまのバンカース』が有名です。地名が日本のものだったり、通貨単位が違っていたりなどのローカライズはされていますし、ルール(&それを通じて狙うゲーム性)が必ずしも同じというわけではないのですが、基本的仕組みという意味では、クローンの一つと言えるでしょう。
  一方で、全く異なるゲーム性を持つ、メジャープロダクトのボードゲームもありました。そうしたものの一つに『人生ゲーム』があります。

 こちらは、エンドレス周回型ではなく、スタートとゴールのあるシステムです。
  ボードには列になった多数のマス。これは曲がりくねった状態でボード上に描かれていて、かなりの長さです。そして中央にはルーレットが配置されています。
  ゲームは、ルーレットを回し、その数字に応じて駒を動かすことで進めます。
  各マスには、「ハンバーガーショップでアルバイト。$10,000もらう」といった形で、イベントが設定されています。この結果、お金の出入りがあったり、進行に関する例外処理(ex;一回休み)が発生したりします。そして、これらも漫然と並んでいるわけではありません。最初の方にあるのは、就職です。やがて、結婚したり子供が生まれたり家を建てたりなど、人生の節目に応じた形で、登場してくるのです。
  ゴール到達後は、手持ちの財産を清算します。全員がゴールし終えた時点で最終財産を比較し、順位を決めます。

 こちらが模擬/象徴しているのは、名前の通り「人生」ということになります。基本的に収入の方が支出より大きいので、現実離れしたほどに豊かな一生を送れるのですが、そのあたりを修正したバリエーションとして「ビター版」「辛口版」なども存在しています。また、スタンダード版でも、イベント内容やゲームバランスは、時代に応じて変化しています。昔のバージョンではやたら子供がたくさん産まれていて、車(6人乗り)に乗せきれないことが多かったのですが、最近ではそんなこともないようです。

 両者は、さまざまな意味で対極的なゲーム性を持っています。
  まず、時間軸。『人生ゲーム』は不可逆的進行です。スタートとゴールがあり、ゲームの進行すなわちエンドに向かって近づいていくことになります。一方、『モノポリー』は条件ループです。勝利条件「自分以外の全プレイヤーを破産させること」を誰かが満たすまで、ゲームはずっと続きます。
  『モノポリー』は、実際には抽象的なゲーム性を持っています。ストーリーや世界観はゲームの裏側にあり、ゲームプレイに直接関係してくることはありません。一方、『人生ゲーム』は、ある種のストーリーを演じるゲームと言えます。社会に出るところから始まり現役引退まで続く人生を、途中あれこれ発生するイベントを通じて疑似体験していくわけです。

 ◆ 「勝つ」をどうデザインするか


 ゲームで重要なのは「勝つこと」です。そして、両雄のいちばんの違いは、ここにあると言っていいでしょう。
  先述の通り、『モノポリー』には世界選手権があり、世界チャンピオンの座をかけての高度な闘いが展開されています。では、なぜ『人生ゲーム』には、それがないのでしょうか。ゲーム性を考えれば、簡単ですね。じゃんけんの世界トーナメント戦みたいなもので、ナンセンスだからです。『人生ゲーム』の勝ち負けは、ほとんどルーレットだけで決まります。プレイヤーの判断が関わってくる場面は、ごくわずか。進学するか就職するかすら、自分では選べないのです。
  つまり、これは「勝ち」と「楽しさ」の関係がどうデザインされているのかの違いと言えます。
  本質的に競技である『モノポリー』では、強い一体性を持ちます。基本的に勝つことを楽しむもので、それには運を期待するのではなく、正しい戦略に立脚した的確なプレイを展開しなければなりません。単なる勝利ではなく、自分の能力を高めることで得られるであろう勝利が、楽しさをもたらしてくれるのです。一方、『人生ゲーム』での両者は、たいした牽連性はありません。勝ち負けは、ただの偶然です。もちろん負けるよりは勝つ方が面白く、初心者や子供にとっては勝てる可能性のある分、『モノポリー』以上の魅力を持つでしょう。しかし、努力や才能とは無関係に得られるものである以上、そのがもたらす面白さは限られてしまいます。むしろ、そこにいたるまでの過程をプレイヤー間で相互に楽しむことが、いちばんのゲーム性となります。

 とはいえ、それだけで終わらせないところが、ボードゲームのそれたるところです。
  『モノポリー』は独占資本主義の経済を幾分かの皮肉を込めてモデル化したものと言えます。もし、これが何もモデル化していないゲームだったらどうでしょうか。真っ白なボードに、地名の代わりに識別コード。やりとりされるのも、ドルではなく単なる数値で、計算シート上に書き込まれるだけ......。それによって得られる面白さは、大いにプレイヤーを限定してしまうでしょう。経済という題材があり、それをモデル化しているからこそ、より多くの人にとって楽しさを感じさせられるのです《*4》。『人生ゲーム』にしても、その本質はすごろくではあるものの、マスに書かれたコピーとコマンドは、一定の世界観に基づいて統一されています。ゲームを通じて、多様性のある物語を一人称視点で楽しむという趣があるのです。
  興味深い題材を持ってきて、それを本質を突きつつもなるべくシンプルな形でモデル化し、遊びとして楽しめる外観を与えてパッケージングする......ボードゲームまでしかなかった時代のゲームデザイナーがやってきたのは、まさにこういうことだと言えるでしょう。

 ◆コンピュータゲームへの導入


 70年代、ボードゲームは、おもちゃ売り場でかなりの存在感を持っていました。例えば『人生ゲーム』では、こんなコピーのCMが繰り返し流されていました。今なら流行語大賞の候補になるぐらいに、はやったものです。

  「ここが人生の分かれ道。億万長者になるか、貧乏農場に行くか」

 玩具メーカーというのは決して大企業ではないのですが、商品の性質上、ゴールデンタイムのCM枠で活発に広告を流すことになります。マニアのものとして始まったコンピュータゲームですが、やがて玩具業界の手に委ねられると、瞬く間にメジャーなエンターテインメントになっていきました。こうした業界が手がけたからこそでしょう。
  とはいえ、コンピュータゲームは、これらボードゲームを電子化するところから始まったわけではありません。「ゲームセンターのゲームが、自宅でも遊べる」が、商品コンセプトだったのです。必然的に反射神経志向で、それはコンシューマオリジナルの時代になっても続きました。深いゲーム性が求められるようになったのは、ブームが沈静化し、次の段階へ進んでからです。

 ただ、その場合も、ボードゲームがそのままソフトウェアになった訳ではありません。ボードゲームが行っていたような"遊ぶ"ためのモデル化――対象を大胆にデフォルメし、遊んで楽しめるレベルまで抽象化するなど――を、取り入れていったのです。
  そこには、コンピュータならではの特徴をどう生かすかという課題があります。
  ソフトウェア化された場合の最大の利点は、「一人でも遊べる」ということでしょう。そしてもう一つ、「プレイヤーがルールを覚えていなくても良い」というものがあります。ボードゲームのルールは必ずしも単純明快ではありませんが、理解している人間が集まらないと、プレイが始められません。しかしコンピュータゲームでは、そういう問題はありません。適切にデザインされていることが条件ですが、ソフトウェアにルールを組み込んでおくことができるため、深く知っていなくてもプレイし始められるのです。
  このアドバンテージは、その分プレイの敷居を下げることにも使えます。でも、逆にルールの方を複雑にすることもできますね。
  例えば、『モノポリー』では26しかない土地・会社を数百に増やすとか、権利金の額が市場で変動するとか。単に独占するだけではだめで、広告費をかけないといけないとか。あるいは、ノンプレイヤーキャラを並行して動かし、利益は彼らがもたらしてくれるとか。「仁義なき独占資本主義の闘い」をゲーム化するのなら、この方がより正統でしょう。ボードゲームとしては、複雑すぎてとてもプレイできたものではありませんが、ソフトウェアなら簡単です。

 ◆ その他のアナログゲームから


 他、コンピュータ化による恩恵をそうした方向で使ったゲームの典型例として、RPGが挙げられます。
  現在、RPGといえばコンピュータゲームとしてのRPGです。『ドラクエ』や『ファイナルファンタジー』のようなタイトルが典型とされ、そのせいで一般には「剣や魔法を使える主人公が魔王を倒す、ストーリーのあるゲーム」といった理解でとらえられています。
  しかし本来のRPGは、ゲームマスターを中心に人間どうしで対話しながら進めていくテーブルゲームでした。マスターは、二人称の物語をプレイヤーたちに提示します。そしてプレイヤーたちは、戦士や魔法使いなど、何らかの役割を演じて、その物語=ゲームに参加します。ちなみに「ロールプレイング」という言葉自体が、「役割を演じる」という意味を持っています。
  本来のゲームマスターは、単なる語り手ではなく、ゲームプレイの全てを仕切る支配人です。用意したシナリオに基づいてゲームを進め、キャラクターの能力、武器や持ち物、そして遭遇したモンスターとの戦いなど、パラメータを元に判定を行っていきます。ただ、手計算でメモしながら進めていく都合上、あまり複雑なことはできません。ゲームシステム自体、割り切った設計とならざるを得ませんでした。
  コンピュータゲームとしてのRPGは、このテーブルトークをソフトウェアにするという取り組みの結果、産まれたものです。個人でも保有できるプログラム可能なパソコンの登場によって、それが現実化したのです。もちろん、コンピュータは人間のゲームマスターほどの対話能力はありません。貧弱な表現力しか持たず、想定外の事態に対応することもできません。ただ、その一方で、メモリーの許す限りの記憶能力や、複雑な計算でも瞬時にやってのける演算能力など、人間には苦手な能力も持ち合わせています。これらの特徴を反映した結果、元のテーブルトークとはずいぶん異なるにはせよ、コンセプトを受け継いだものとして、コンピュータRPGが生まれました。そして、これが持つ特徴=「一人でも遊べる」と結びついた結果、ポスト成長期のゲーム界で中心ジャンルの地位を獲得するだけのソフトになっていったのです。

 他、シミュレーションゲームにも、同様のことが言えます。
  例えばタクティカルシミュレーション。戦争をモチーフにしたこのゲームは、元々は実際の軍隊が作戦立案や訓練のために開発したものです。ゆえに、現実的であることが至上の要求となるため、解りやすいとか遊びやすいとかいった事情は考慮していませんでした。軍事マニアのような人種にとっては、それを理解すること自体が喜びですが、結局そういう人しかプレイしないため、アナログゲームとしてしか存在しなかった時代、きわめてマイナーなカテゴリーであり続けました。
  ところが、ソフトウェアになることで、いろいろな問題が解決しました。きめ細かなモデル化が可能になったことに加え、システム自体にプレイヤーをアシストする機能が実装できるため、格段にプレイしやすいものとなったのです。加えて、従来では導入が困難だった要素 ―例えばターン制をやめてリアルタイム制にするとか、索敵を組み込むとか― のスムーズな導入まで図れることになり、可能性が劇的に拡がったといえます。これは、戦争以外のシミュレーションゲームでも、同様でしょう。

 むろん、現実に即したモデルを構築するのは、必ずしも正しい解法だとは限りません。リアリティの導入が面白さを保証してくれるわけではないというのは、理数系だけの問題ではないのです。そして、商業版ゲームは、研修目的でプレイするわけではありません。現実を正しく再現していなくても、楽しめればそれでいいのです。
  ゲームデザイナーに求められているのは、そのあたりの取捨選択能力です。これは、ハイテクでもローテクでも、本質的な違いはありません。

 ◆ 「飽食の時代」の料理人


 私がゲームの仕事に入ったのは90年代の初めです。その頃にはゲーム産業もすっかり産業らしい体裁を持っていました。しかし、人材的には、それ以前の世代の人がいっぱい残っていたのも事実です。

  「昔は良かったよなー。
    2・3ヶ月かそこらでゲーム作れてさ、
    グラフィックスもそれっぽく描けてりゃOKだったし、
    サウンドなんて、ビープ音だったしさ。
    ステージだって、同じのがずっと繰り返しで良かったんだ。
    それから、売れたんだよな。十万本なんてざらで、
    鼻クソみたいなゲームでも出せばとりあえず2・3万は売れたしさ」

 どんな分野でも、成長期には入れ食い状態があるものです。自分自身の経験としても、初めてアーケードのゲームに熱中した頃は、今思えばゴミのようなタイトルに、毎日何枚も百円玉をつぎ込んでいました。当時としては「テレビ画面を自分で操作できる」というだけで、十分楽しめたのです。そして、私の技術では、せいぜい数分やればゲームオーバーだったため、ステージの変化の乏しさも全然気になりませんでした。
  ただ、安定期に入ると、事情が違ってきます。優秀なゲームの登場によって(私の場合は『ゼビウス』との出会いが大きかったのですが)、スタンダードが引き上げられてしまうのです。その意味で、こうした先輩たちのぼやきは「あー、オレたち仕事しなくちゃいけないんだよなー」なんて言ってることに他なりません。正直あきれて聞いていたものですが、たぶん2000年代初めに業界に入った人も、私たちの世代のぼやきに同じ印象を持ったのかも知れませんね。というのも、90年代もまた、それ以降の時代に比べれば、入れ食い的お気楽さを持った時代だったからです。
  マシンの性能はまだまだ右肩上がりで、それについて行けさえすれば、最新のゲームを名乗ることができました。そして、顧客層の感心を、簡単に手にすることができたのです。それが長く続いた結果、そうしたことが、あたかも「これとこれを押さえておきゃ、客は買う」という決めパターンとして、確立してしまったのです。
  しかし、現代はもうそういう時代ではありません。今、ゲームプレイヤーの中心を占める中高生は、生まれたときにはもうプレステがあった世代なのです。「基本3Dで、イベントの時だけキャラ絵出してアニメ声優の声あてときゃ売れるって!」の類が通用するはずもありません。むしろ、アニメやライトノベルなど他のエンターテインメントメディアと比較され、同じ基準で取捨選択されてしまうことを、覚悟しなければならないでしょう。

 古いゲームと接するとき、思いもよらない面白さを見つけることがあります。
  もちろん、ゲームの黎明期を体験的に知っている世代に属する私としては、ノスタルジーの要素を完全に抜き去ることは難しいかもしれません。しかし、それでも時代を超越した面白さを感じることがあります。そうしたゲームをじっくり考えてみると、良質のボードゲームと同じような洗練さがあることに気づきます。それは、いたずらにメディアリッチな作品ばかりを志向してしまいがちな現在のゲーム屋に対して、大きな示唆を与えてくれるものだといえるでしょう。
  "遊ぶ"のアーキテクトとして、最適化された面白さを追求していきたいものと思います。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *
【注釈】

*1 :設計思想のことをアーキテクチャと......
  コンピュータ用語の「アーキテクチャ」は、実は建築用語からの借り物らしく、本来的な意味だと「建築様式」になってしまうらしいです。よりによって"様式"が導かれてしまうところが、皮肉なものですね。ゆえに、この辺りの説明を英語に翻訳すると何言っているのか解らない毒電波な記述になってしまいそうですが、当面は日本オリジナルなので、いいとしましょう。

*2 : 日本ではタカラトミーが発売元  このあたりは、細々と説明するよりも、公式サイトを見た方がいいでしょう。詳しくはこちら(http://www.takaratomy.co.jp/products/monopoly/)をみてください。  なお、後述する『人生ゲーム』も、同じ会社の製品です。URLは、こちら(http://www.takaratomy.co.jp/products/jinsei/)になります。さまざまなバージョンが紹介され、またマスのひとつひとつを見ていくこともできるため、一見の価値ありです。

*3 同じゲームモデルを採用したさまざまな製品が存在  例えば、タカラ『億万長者ゲーム』。このゲームの特徴は、権利を設定できる地名コマによる周回路以外に、「資金稼ぎゾーン」という小さなサークルがあります。スタートから資金が一定額に達するまではこちらを回る必要があり、またそれ以降も必要感に応じて周回していくことができます。地名は世界都市で、ニューヨーク・ロンドン・パリ・東京・モスクワが世界5大都市という扱いでした。  他、日本版がエポック社から発売されていた『ペトロポリス』。地名が産油国に、家が油井になっています(ボードそのもののデザインももちろん異なります)。つまり、国際石油資本をモチーフにしたゲームということですが、特段の斬新さはなかったように記憶しています。  なお、ボードゲームである以上、実際にどういうルールで遊ぶのかは参加するプレイヤーの合意に任されているといえますね。『はなやまのバンカース』を子供の頃に遊んだときの記憶では、プレイヤー間の取引はなかったように思いますし、家を建てるのも土地ごとにできたように記憶していますが、私の友人宅でのみ通用したローカルルールなのかも知れません。現在、復刻版がアマゾンで購入できますので、確認できなくはないのですが。

*4 :経済という題材があり、それをモデル化している  『モノポリー』には、「マフィアのしのぎをゲーム化している」という説もあります。土地がいちいち権利金で売り買いされ、そこに立ち寄っただけでレンタル料を取られるのも、ようはストリートごとに縄張りがあって、みかじめ料を取り立てているということ。鉄道会社と公共会社は、さしずめ企業舎弟でしょうか。

 

NASAは90年代に短期間「速い、安い、うまい」というスローガンを導いた。この後、プロジェクトが連続して失敗し、このスローガンは放棄された。......(略)......それは「ぼくは飛べる」とか「私は岩を金にできる」と同様のたわ言だ。正しい言い方はこうなる:「速い、安い、うまい。3つから2つ選べ」
    
    
  ルディ・ラッカー著 中本浩監訳
   「ソフトウェア工学とコンピュータゲーム」(2004年、ボーンデジタル)より

 
 
 ◆ 身近な上級職種


 申し訳ないことに、新学期を迎えたところで、かなり間が空いてしまいました。
  これには、私自身の工学院における立場の変化が関係しています。これまで科目担当講師という、ある意味気楽な立場だったのですが、今年はクラス担任を持つことになったのです。新入生諸君に対してこちらも初仕事という組み合わせ。なかなかたいへんなもので、落ち着くまでにこんなにかかってしまいました。
  これからは元のような月1ペースに戻していきたいと思いますので、よろしくお願いします。

 さて、前回のプロデューサーに続き、今回はディレクターにスポットを当ててみます。
  こちらも多少はあいまいな響きを持つとはいえ、プロデューサーほどではないでしょう。テレビ番組や映画などで、おなじみの職種だからです。また、クリエイター&志望者にとっての身近さという点でも、大きく違っています。プロデューサーという仕事は、職層的にかなり上の方にあり、立ち位置の面でも、開発現場とは離れた仕事です。しかしディレクターはそうではありません。業務経験が浅い社員でも担当する可能性がありますし、立場は違えども開発チームの一員で、クリエイターから見れば、基本的に同等の存在となるのです。
  図は、ゲーム開発の職種を、作業の流れという視点からまとめたものです。
  直接作る立場ではないという点から、クリエイターからは除外されています。しかし、開発チームに属して直接プロジェクトにあたっているもので、現場の人間です。図では少し離れたところに描いてありますが、パブリシティやマーチャンダイジングにあたるスタッフ(=プロデューサーの部下たち)とは、明確に区別されていることがわかると思います。

 そもそもゲームデザイナーにとっては、「仕事の一面」でもあります。もともと企画の仕事には、ゲームを構想し提案していくことだけでなく、プロジェクトを動かしてソフトを現実化していくという側面もあります。ディレクターは、(上の図が前提にしているように)独立した職種となっている場合もありますが、企画職が持つ後者の役割に対する呼び方と言いうる場合もあるのです。*1

 

 ◆ ゲーム開発の4段階


 では、実際にどのような仕事をしていくのでしょうか。これは、仕事の手順に沿って考えてみましょう。
  創作は、特定の手順を踏まなければできないというものではありませんが、個人の手作り的な作業でない限り、段階的な手順が必要です。ゲームの場合、大きな流れとして、「構想」→「企画」→「仕様」→「実装」という4段階となります。*2
  構想は、ゲームや商品性のあれこれを考えていく作業です。どんなゲームがおもしろいのか(+どういう人に、どのように)、いろいろと考えていくのです。日常の観察からおもしろさを見つけ出そうとする場合もありますし、今人気のあるものを分析していくこともあります。一方、技術や予算などの制約要因は、この段階では深く考えません。意識しすぎると発想が萎縮してしまうためです。
  企画は、もう一歩実際の商品を意識して具体的なゲームの形を考えていく作業です。単にソフトとしてどういうものにするのかだけではなく、工数、予算、市場なども含めて、どのような商品にするのかを考えます。
  仕様は、実際にどういうソフトとして作るのかを、詳細な点まで決めていく作業です。ソフトウェアとしての仕組みを決めていく要素も含まれますし、パラメータの種類や相互の関係といったゲームシステムの部分もあります。世界観やキャラクターの設定など、文芸・美術領域の作業も含むことになります。
  そして実装は、実際にコードを書いたりデータを作ったりしてソフトウェアとして現実化していく部分を指す言葉です。

 段階的な開発は、「進んだら、振り返らない」という意味でもあります。小説や漫画など個人制作の作品でもこういう意識付けは必要でしょう。それがないと、いつまでもあらすじだの設定だのをいじっているだけで肝心の作品を作らない、"永久志望者"になってしまいます。ただ、会社による開発の場合は、単に意識付けの問題ではありません。段階が進むことで、プロジェクトはより大規模化していきます。人や物が投入され、お金を使うようになっていくのです。後戻りしてしまうと、投じた資金が無駄になってしまいますね。そこでボスとしては、段階を進めてもいいものか判断をしなければなりません。これをゲームデザイナーの側からみれば、各段階でアウトプットを出し、そこで判断をしてもらって次へ進むということになるのです。

 構想の終わった段階で作るのが、提案書です。どんなゲームにするのか、どういう面白さを狙っていくのかということを、解りやすくまとめたものです。社内プロジェクトでは、直属の上司に見せることになります。そしてこれが一応の評価をうけた場合、本格的な企画を進めていくことが許されます。
  企画段階の目的は、それを通じてプロジェクト自体の許可を得ることにあります。会社にとっても、ここから先へ進めるかどうかは大きな経営上の決断となります。少なくとも、稼げる(最悪、赤字を出さない)という確信が必要なのです。そこで、ゲームデザイナーとしては、単にゲームの形を考えるだけではなく、これがどういう根拠に基づいてどの程度売れるのかといったことも含めて企画を詰めていく必要があります。そして企画段階で最終的に作る文書が、企画書です。ただ、作って提出すれば終わりということはなく、たいていはプレゼンテーションを伴います。つまり、決定権のある人に対して、直接訴えかけるわけです。
  そして、ここでOKが出た場合、プロジェクトには予算が付き、スタッフも集められ、実際に動き出すことになります。*3

 ◆ 要求仕様と設計


 企画が通れば、いよいよ仕様の段階です。そしてこれ以降が、「ディレクター的な仕事」では真価の問われるところです。
  企画段階が終わったところで、実際のゲーム開発の作業量ではとても半分などといえるものではなく、せいぜい最初の5~10%に過ぎません。上層部に認めてもらったゲームのプランがきちんと現実の製品になって登場できるかどうかは、ここから先のプロセスにかかっているのです。

仕様というのは、簡単にいえば「ソフトの設計図」です。どのようなものを作るのかを、詳細&具体的に記述していくものです。なかなか実感がつかめないと思いますが、ここは一歩ずつ考えてみてください。
  まず、完成像=動いているゲームソフトをイメージしてみましょう。自分自身がプレイヤーとしてそのソフトに取り組んでいるところを想像するのです。
  このとき、イメージの中心には、外観・制御・振る舞いの3要素があるはずです。
  外観は、画面の見え方です。どこにどのような要素があり、ユーザーにどんなインフォメーションを与えるのか、さらにどう遷移していくのかというということです。
  制御は、キーボードやマウスなど。どう動かすことで何が起きるのか、メニューがどうなっていてどう働くのかということです。
  振る舞いは、プログラムの主な機能となります。ユーザーのアクションに対してどう応答するのかということです。
  この3つの視点から、作ろうとしているゲームをしっかりイメージし、人に説明できるようにはっきりさせていきましょう。
  さらに継続してプレイしている状態もイメージしてください。おもしろいゲームだと、プレイヤーは食事も睡眠もそっちのけで集中して取り組んだりするわけですが、そこでは何を観て何を感じているのでしょうか。突き詰めて考えれば、マップやステージの配置ということにもなりますし、マイキャラ(あるいはプレイヤー)がどう成長していくか&どう成長させていくかのプランも含んだものになるでしょう。

こうして出てきた全体を、ソフトウェアとしてどういう形になるのかという視点でまとめます。その結果できあがる文書を、仕様書と呼びます。
  仕様書では特定の書式を考える必要はなく、十分な内容がわかりやすく書かれていればOKです。逆に言えば、内容が不十分だったりわかりにくかったりしたら、どんなに立派な体裁でも不合格です。文章だけで書こうとしても、たいていは伝わりません。図や絵、数字・数式なども活用していくことになります。そして、相当な分量になってしまうため、全体の構成も使いやすいように工夫していく必要があります。

こうしてまとまった仕様は、正しくは「要求仕様」といいます。企画屋からプログラマに対して行う、要求(=こういうソフトを作って欲しい)だからです。プロジェクト全体としては、その次に「どのような技術方法で実装するのか」という問題があり、この部分を「設計」といいます。また、この結果作られた文書を「実装仕様書」と言う場合があります。
  ただ、ここは既にエンジニアたちの聖域です。メインプログラマが誇りと責任を持って取り組むべき課題で、ゲームデザイナーがちょっかいをかけていい場所ではありません。

要求仕様と設計の関係は、一応前者から後者へという流れになります。
  ただ、実際には、逆転することもあります。要求が、技術的にできなかったり、あるいはもっと合理的な他のやり方で目的を達成できたり、あるいは技術的に可能なことがあってそれを組み込むことで要求にはなかったおもしろさが出せそうな場合など、プログラマの側からあれこれとボールが帰ってくることがあるのです。
  そして、ゲームにおける仕様段階は物語性の部分や美術面なども含むため、グラフィッカーやシナリオライターなどとも、同じようなボールのやりとりをすることがあります。
  そのため、仕様の決定は、適宜フィードバックループを描きながら、具体化していくことになります。

 

 ◆ 実装と5つのフェイズ


「実装」は、4段階では最後の部分ですが、これはさらに細かく段階化すべきでしょう。プロジェクトマネージメント技法では、プロジェクトの全体を「立ち上げ」「計画」「実行」「コントロール」「終結」の5つのフェイズで理解します。

立ち上げ段階で行うことは、目標の明確な設定です。そのプロジェクトが成立するためには、目標において次の条件を満たす明確性が必要です。(1)具体性、(2)現実性、(3)期限の存在、(4)測定可能、(5)合意が取れている、(6)責任が明確、の6つです。
  例えば漠然と「斬新な操作性のゲーム」としたとしても、これでは目標は立てられません。また、「プレイヤーの感情を読み取ってステージ展開に反応させる」といった仕様は、表情認識が画期的に向上した現在では技術的には可能かも知れませんが、ゲームソフトに許される工数を考えると、たぶん現実性が乏しいと思います。また、誰が何をしなければいけないのか不明確なままでは、肝心な部分が残ったままで進んでしまったり、いちいち判断でつかえて進まなくなったりといったことも起こります。
  特に見落とされがちなのが(4)でしょう。別の言い方をすれば、数値で表現可能なことを目標として設定する、ということです。そもそも日本の文化ではそうした考えをとることが稀で、目標と願望の区別すらあいまいなまま、景気のいいことを掲げる傾向があります。現実的な目標を設定した結果、上司から「そんな心構えではだめだ、無理を承知で挑戦しろ」などと叱責されたりする話も、よく聞きますね。
  しかし、数値化できない目標というのは、本来存在そのものがナンセンスなのです。「できる限りがんばる」などといっていたのでは、達成率が全く計算できません。つまり納期管理や品質管理などの基準が立たないと言うことで、これはプロジェクト管理では致命的です。たとえ数値を使っても、景気づけで過大な数字を書いたのでは、子供が「ひゃくおくまんえん」とかいってるのと大差ありません。
  もちろん、ゲームの価値の中には、「面白さ」とか「魅力」といった、数値化が難しそうなものがたくさんあります。しかし、そういうものが存在してるということは、一切の努力を放棄する理由にはなりません。私たちがビジネスとしてそれを行っている以上、これらは必要なことなのです。

目標が定まれば、次は計画です。これもまた、理性的な営みでなければなりません。
  ここで行うことは、作業の詳細なリストアップと、その段取りの組み立てです。
  リストアップは、階層的に行うことが効率的です。まず、大きな作業単位で並べます。次に、その中に含まれる一段階詳細な作業を並べていきます。そして、それをさらに細かな単位に落としていきます。こうして、階層的な構造で、作業のリストを作るのです。最終的には、具体的な各作業について、必要な人数および期間が、達成目標とともにまとめられることになります。プロジェクトマネージメント技術では、これを「WBS」(ワーク・ブレイクダウン・ストラクチャ)と呼びます。
  こうしてできあがったWBSですが、各項目は一直線に並んでいなければならないものとは限りません。いくつかの作業は同時進行でできるはずですし、また、工程上後の方にあっても、先行して片付けておくことが可能なものもあるでしょう。こうした点を意識して、手順を組み立てます。この時、可能であれば担当者も併記しておいた方がいいでしょう。なお、不明な部分があった場合も、前後の作業はわかるはずなので、暫定的に項目化します。
  以上をわかりやすく言えば、「何をするのか」を「誰が」「いつ」とともにはっきりさせておくということです。

こうして計画ができあがれば、次は実行です。ただ、一度動き出せば後は放っておいても大丈夫という訳にはいきません。進行が遅れたり、担当した仕事にばらつきが出たりで、あれこれ手当しなければならないものです。そもそも、スタート時点で全ての見通しが正確に立てられるというのは、プロジェクトの規模がよほど小さいか、あるいは完全な定型業務など、そもそもプロジェクトと呼ぶのに値しない仕事であるかのどちらかでしょう。計画は、実行段階で補われることが、むしろ当然なのです。
  また、途中で予期せぬ事態が発生するということもあります。さらに、仕様や納期の変更など、予定そのものを手直ししていかなければならないこともあります。そして、終了した後もそのままプロジェクトを解散して終わりというのではなく、一連の経験を次に生かすためのまとめかたがひつようです。「コントロール」「終結」の各フェイズも、現実の仕事の上では重要になってくるのです。

 

 ◆ ガントチャートで可視化せよ


 さて、計画を立てた場合、それをどのように使うのかが、重要になります。もし担当者の頭の中にしかないのでは、非常に使い勝手が悪いということになります。基本的に、誰からも見えるようにする=可視化する必要があるでしょう。
  そこで作られるものがあります。ガントチャート(線表)です。
  ガントチャートに使う道具は、縦横の表です。縦軸(行)に個々の作業を置き、横軸に日時(通常は週単位)をとった上で、作業を行う期間を横棒で示していきます。
  図は、ガントチャートの一例です。手元に公開可能な適切なものがなかったので、オンライン百科事典「ウィキペディア」からパブリックドメインとして公開されている画像を持ってきました。

 図を見ればわかるように、ガントチャートはWBSと直結しています。縦軸に書き込む作業は、WBSでリストアップしたものなのです。また、WBSと同時に組み立てておいた手順に沿うように配置することは、言うまでもありません。図の場合、"WBS1.1"の作業と"1.2"の作業は同時にスタートしていますが、"1.3"の作業は"1.2"が終わってから。また、"1.3"と"1.4"、また別項目の"2.3"とは、終わりがそろえられています。

 ガントチャートの目的は、プロジェクトの可視化にあります。*4
  これを壁に貼っておけば、どういう段取りでこれからの仕事が進むのか、また誰がどんな作業をすればいいのかわかります。そして、期日通りに進んでいるか......遅れがある場合は、どこがどのように問題になっているのか、即座に把握することができます。つまり、「計画」フェイズだけでなく、「実行」フェイズのリアルタイムな可視化であり、同時に「コントロール」フェイズの強力なツールにもなるわけです。
  プロジェクトの可視化には、他にもネットワーク図というものがあります。こちらは、作業手順を可視化したものです。WBSではっきりさせたジョブは、前後関係を正確に把握しておかなければならない場合もあります。上の図における各アクティビティの関係は、このままでも読み解けば理解できますが、ネットワーク図として別途まとめていた方が、より親切でしょう。

 私見としては、プロジェクト管理というのは、実際にはこのガントチャートにかかっているように思えます。「適切なガントチャート」というのは、プロジェクトマネージメントの手段のように見えますが、実際にはそれを目的にして取り組んでいくと、ちょうどいいのではないかと思うのです。



 ◆ 暗黙知に呑まれるな


 以上、ゲームデザインのディレクター的な仕事を紹介しました。
  「プロジェクトを指揮する」という言い方をすると、チーム全体ににらみをきかす強面のボスのような姿を連想しがちです。逆に「スケジュールを管理する」では、ただの雑用係のように思えるでしょう。現実のディレクターはその両面を併せ持っているわけですが、ここまでの話で、その奥深さがお分かりいただけたのではないでしょうか。また、一見ただの経験でやっているように見えることが、案外それを支える技法の上に成り立っていることに、驚かれたかもしれません。プロジェクトマネージメント技術は、経営大学院(MBAスクール)でも主要科目のひとつに位置づけられています。とりあげたWBSも、実は精緻な理論に裏付けされた知識体系の一部として教えられているものです。

ただ、ここで展開したのは実のところ「理論」で、実務的にはこうした体系をマスターしていなければならないというものではありません。というのも、会社のプロジェクトは、ゼロから起こすものではなく、たいていの場合、「前のプロジェクト」があるからです。例え新人であっても、以前に行われたプロジェクトを元に組み立てていけば、一応のスケジューリングはできるのです。
  新入りばかりを集めて新規プロジェクトを起こすような会社はなく、通常はメンバーの大半がそれ以前のプロジェクト経験をいくつか共有しているものです。そして手順というのも、チーム(場合によっては会社)全体として、ある程度決まっているのが常です。このような成文化されていない知識を「暗黙知」といい、マネージメントでは以前から注目されていました。実際の現場では、MBAスクールで教えられているような知識・技術などはほとんど求められず、むしろ場の空気から暗黙知を学び取れる柔軟さの方が、たいていは優先されることでしょう。
  さらに言えば、ガントチャートすらも書かずに済む場合があります。いつも同じメンバーで似た傾向のゲームを作っているようなチームだと、作業の手順というのも、事実上定型化しているものなのです。いつ頃誰が何をしたらいいのか、各自がだいたいわかっているため、特に打ち合わせなどしなくても、どんどん進んでいくということです。

ただ、それが手放しで喜ばしいことなのかは、少し考えてみるとわかると思います。
  こういうチームは、人材的に固着してしまいがちです。他の組織で経験を積んだ人間を受け入れられないからです。また、こういうチームに配属された新人は、よそのルールがわからず、将来苦労することになりますね。そして、時代が変わり、求められるゲームや投じられる技術が変化したときには、チームごと取り残されてしまうでしょう。
  暗黙知という現象がマネージメントの世界で注目されていたのも、この二面性を持つからです。便利で役に立つ反面、発想の固定化をもたらしてしまうのです。
  ゲームデザイナーであれば、プロジェクトマネージメント技術の基本は理解しているべきです。そして、現場の仕事に入っていったとき、無理に導入しようとするのではなく、流れの中で導入が役に立ちそうな場面を見つけ、順次組み込んでいくことが、いちばん現実的だと思います。もしガントチャートすら作らずにプロジェクトが進んでいたとしたら、かなり危険なことだといえるでしょう。

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  今のところ、主に授業のフォローや担任としての連絡などに使っていますが、今後、この連載のアフターケアにも活用していきたいと思っていますので、よろしかったら、フォローしてやってください。
  質問なども、リツイートでどうぞ。


【注釈】


*1 :独立した職種となっている場合もありますが......
 このシリーズでは、「企画職=ゲームデザイナー」という立場なので、こういう言い方になりますが、ゲームの構想&提案部分だけをゲームデザインとする立場からは、「企画職の仕事=ゲームデザイン+ディレクション」という構図で理解できるでしょう。
  ただ、名刺にディレクターとある人が、ここで書いているような立場とは限らないのが、面倒なところです。実質的にプロデューサーなのに、肩書きはディレクターなんていうことがあるのです。「『プロデューサー』は、スタッフクレジットで社長につける肩書き」なんていう会社だと、その部下をプロデューサーと呼ぶことはできないわけですね。また、マーチャンダイジング担当の中にもディレクターと名前の付く人(例えば広告ディレクター)もいるため、話は混乱してきます。
  このあたり細かく論じていくときりがないので、あまり深入りしないことにします。

*2 : 「構想」→「企画」→「仕様」→「実装」という4段階
  このあたりは私自身の業務経験に基づく描写で、オーソライズされた用語ではありません。一方で、少し後ろに出てくる「要求/設計」や「5つのフェイズ」などは、工学者・経営学者によってオーソライズされた概念を引用しています。実は彼らの理論はここで引用しているものより遙かに精緻なのですが、正直なところ、私が自分の周辺で見聞きしてきた実際の業務ではそれほどのものは使いません。アバウトな把握でも、全くのカオスに比べれば格段に有効なものなのです。

*3 :ここでOKが出た場合、プロジェクトには予算が付き......
  予算が付くといっても、その時点ではお金がある訳ではなく、将来に向けての約束にすぎません。「予算3億」などと言われると、つい3億円の札束が積み上げられる状態を想像してしまいますが、実際には「完成するまでに使うお金として、トータル3億円まで許してあげるよ」ということです。そのため「予算はあるが金がない」なんていう悲喜劇も、しばしば発生します。

*4 :プロジェクトの可視化
  ソフトウェア開発を可視化する試みとして、近年UMLというものが注目されています。平たく言えば「チャートの体系」です。ソフトウェア開発の世界では、処理の流れを可視化するためにフローチャートが使われていました。書き方と記号の意味を共通化することで、共通言語としての意味を持たせたのです。UMLにも、それと同様の形式は含まれています。さらに、概念設計からコーディングに至るまでの各プロセスに応じたさまざまな形式が用意されています。
  現状では、まだ普及度が低いのですが、システム開発の領域で、徐々に使われるようになってきており、ゲーム開発者教育の局面でも、しばしば論じられるようになってきています。プログラマたちが当たり前に使うようになってくれば、ゲームデザイナーにとっても必須知識の一つになるでしょう。

 

より先進的なゲーム開発会社のいくつかを除けば、ソフトウェア開発の一般的なレシピは次のようなものだ。
    1.手が空いている開発者を4,5人見つける。
     様々な専門家たちをいざというときに手配できるようにしておく。
    2.プログラマのリーダーには風変わりな天才を指名する。
    3.彼らの都合の良いときに、アート関係のスタッフとともに
     小さな部屋に集合させる。
   4.定期的に激励したり、好みに応じてソフトドリンクや
     ピザを差し入れたりしながら、
     18ヶ月間弱火でコトコト煮込む。
   5.少し余分な料理時間を与えるように準備する。
     しかし、成果が生焼けだったり、
     開発者が疲れ果ててカリカリになってしまう事態にも備える。
確かに、これも過度に単純化しすぎているが、これがコンピュータゲーム業界の一般的な手法だと知ればびっくりするだろう。......最終的には同じように古くからの「地獄のようなコーディング」という方法論に落ち着くことになる。
    
   A.ロリンズ、D.モリス著 アクロバイト監訳
   「ゲームクリエーターズバイブル」(2001、インプレス)より

 
 
 ◆ 謎めいた職業


 最近リメイクされている『宇宙戦艦ヤマト』ですが、私の場合、年代的にオリジナル版のジャスト世代になります。社会がブームと称して騒ぎ出す前からどっぷりはまっていて、"世間の方が自分に追いついてきた"感覚を味わった最初の作品でもありました。
  ファンとして当然サントラ盤も持っていたのですが、大ブームの中に登場してきたレコードに『交響詩ヤマト』*1なんてものがあり、そのオビやポスターにはこんなことが書いてありました。

  「ヤマトの世界がシンフォニーに!
    作曲家**が渾身のアレンジ、
    プロデューサー西崎が丹念にプロデュース!」

 これを見た少年時代の私は、首をかしげたものです。......丹念にプロデュースって、具体的に何をどうしたんでしょうか? 尋ねる相手もいなく、疑問は結局疑問のままになってしまいましたが、プロデュースに送る最適形容詞は果たして何なんだろうかと、今でもときどき思います。

 カタカナ職業というのは元々わかりづらい面がありますが、プロデューサーはその中でもとりわけわかりづらい仕事でしょう。
  真っ先にイメージされるのは、音楽やテレビなどの業界でしょう。感じとしては「会社の人」「上の方の人」で、しかも現場のスタッフ・キャストとは別系統の人種という感じです。一方映画ではこの異質さがなく、基本的に監督と人材的に互換のようです。例えばスピルバーグの場合、しばしばプロデューサーとしても名前がクレジットされていますし、監督が別の人でも映画のテイストは明白にスピルバーグ流です。アパレルやコスメティックなどでは、しばしば女優やタレントの名前が出てきたりします。ただ、女優自ら裁縫仕事をしたり原液を調合したりはしていないはずで、何をしているのかはよりわかりづらくなっています。
  ゲームの場合はどうでしょうか。スタッフクレジット上は昔から存在しましたが、そこは社長の定位置でした。大きな会社になるともう一つ上に「エグゼクティブ・プロデューサー」があり、社長の名前はそこに載るものでしたが、エグゼクティブのつかない"平"プロデューサーも、実際のところは統括開発責任者とか、かなり上の方の管理職だったのです。ただ管理職の管理職たるところは会社の維持運営など日常業務の方にあるわけで、その作品に対してどう取り組んだのかが見えてくるわけではありません。

 このように混乱しがちな仕事なのですが、「商品としてのそれをつくる」と考えればいいでしょう。技術の集積によって作られるものの、純粋に技術だけでは成立しない類の物について、そういう立場で関わっているということです。
  ここで役に立つのが、第1回で述べた「三位相」です。ここで挙げたような製品は、どれも工学・芸術・商品の三つの位相を持ちます。その中で、プロデューサーは商品としての面を中心に取り組むのです。

 

 ◆ 実務のトライアングル


 商品の種類が異なれば手順や業界慣習なども異なってくるわけで、統一的な「プロデューサー原論」は立てにくいと思います。ただ共通して言えるのは、プロデューサーもまた「作る」に関わる仕事だということです。
  それは、定常業務ではなく、プロジェクト中心だと言うこと。定常業務というのは、例えば帳簿を付けるとか得意先を回るとかが代表例ですが、これは会社が続く限り終わりはありません。今年度分が終われば、すぐ来年度分が始まるわけです。そして、毎回毎回の内容は、基本的に同じです。一方プロジェクトは、始まりと終わりのある仕事です。明確な目的を持った上で、期限と目標を決めて取り組むものです。
  なので、インプットとアウトプットの両面で意識していく必要があります。

 まず、インプットについて見てみましょう。
  「人、物、金」のトライアングル......多少俗っぽくなりますが、この言葉で捉えることができます。
  「人」どんな人を集め、何をさせるのかということです。インハウス(社内)のスタッフであれば、どんな役割を与え、どう組み合わせるかということになります。外部まで含めて考えれば、人脈というものもあるでしょう。
  「物」必要な資材の手配ということです。ゲームの場合も機材や作業場所は必要ですが、それよりもこんにちでは権利関係が大きいでしょう。ミドルウェアやゲームエンジンなど、ライセンスを取得しなければならないものがいろいろとあるからです。
  「金」これは明瞭ですね。ソフトの開発費において最も大きいのは人件費ですが、これは毎月給料日になるときっちり出て行ってしまいます。一方でソフトが発売されるまで収入はないわけで、うまくやりくりをしなければなりません。他の製品のインカムを回したり、外部からの資金を集めたりするわけです。そしてトータルとして赤字を出さないようにしていかなければなりません。
  商品としてのゲームを作っていくのにあたって、ゲームプロデューサーは、このプロジェクト遂行に不可欠な3要素を管理していくわけです。

 これは、他業種においても、ある程度は言えるのではないでしょうか。例えば映画。監督以下のスタッフと俳優を手配し、スタジオや編集機材などを調達して作るわけですが、それにはお金がかかり、外部の投資家から調達する必要も出てきます*2。例えばスピルバーグが、自分のよく知るスタッフを使い、自分がいいと思ったシナリオで、しかも「スピルバーグ」の名の下にお金を出してくれる人たちの期待に背かないように作れば、当然スピルバーグ映画になってくるわけです。




 ◆ 4つのP


 次いで、アウトプットの方を考えてみましょう。
  クリエイターにとってのアウトプットは明確で、作品ないし作品に組み込むデータを完成させることです。ところが、プロデューサーの場合、そこまでの明確さはありません。それは主に関係性の中にあるため、最終的に形になって残るものは少ないのです。
  「必要なことは全部やる」ということで、それはそれで明確とも言えるのですが、全体を見通していないと一部だけをやって全てをやったような気になってしまう危険というのがついて回ります。
  このような意味から、「4つのP」という言葉があります*3。Pで始まる4つの言葉で、取り組むべきことを整理するわけです。具体的には、これは、プロダクト(製品)、プレイス(販売)、プライス(価格)、プロモーション(宣伝)となります。

○プロダクト
  どんな製品を作るかということです。プラットフォームやターゲット層などの要素から、具体的にどんな仕様にするのかまでがターゲットになります。また、品質、デザイン、ブランドといった要素もここで論じられます。単純に「いいものにすればいい」という訳ではありません。というのも、いいものを作るとコストが上がってしまうからです。また、デザインやブランド性も、狙う顧客層にあわせた作りにしなければなりません。
  ゲームの場合も、技術の標準化が進んだため、コストと性能のトレードオフが確立してきた感があります。

○プレイス
  一般には、流通チャンネルやロジスティックを意味します。商品は、流通に載せない限り、店頭に並ぶことはありません。確立されたチャンネルがあるのならそれを利用するということになりますが、なければ作らなければなりませんし、あってもあえて別のチャンネルを使うことでビジネスチャンスを拡げることもできます(例;食玩フィギュア)。
  ゲームの場合、コンシューマを国内だけでやっている分にはあまり問題にならないのですが、それ以外のことをやろうとすると、直面することになります。

○プライス
  価格です。「いくらで売るか」だけでなく、割引なども対象になります。例えば低価格にすると数が多く出ますが、当然一個あたりの利益は減り、トータルでの判断が必要になります。しかし戦略上は「損して得取れ」の状況が発生することもあり、一概にここの計算だけでは決定できません。
  例えば「2」を買わせるためには、第一作の普及を優先する必要があります。しかし第二作まで買ったユーザーは、特にてこ入れしなくても「3」を買い求めるでしょう。この状況下で価格が同じである必要は全くないわけで、戦略的なプライシングというのが重要になるのです。

○プロモーション
  広告、パブリシティ、販売促進といったものです。他で差を付けにくい分野では、ここで明確な違いを出していく必要がありますし(消費者金融やタバコなど典型でしたね)、実質的にこの要素だけで決まってしまう場合もあります。
  総予算が限られるゲームの場合、特に費用対効果の問題が重要です。例えばテレビCFだと、15秒のスポット広告を1回流すだけで軽く何百万の料金がかかってしまいます。ビールや自動車と張り合って大量に流すわけにはいかないのです。
  なおパブリシティというのは、マスコミの記事などを通じた露出のことです。単に「パブ」ともいいます。同じページ数でも、広告よりも記事として載った方が断然効果的なのは当然ですね。しかし扱うかどうかの決定権は先方にある訳で、実際には「働きかけ」ということになります。単に人的にアタックするだけではなく、記事として使いやすいような素材をまとめたもの(=パブキット)を送付するというようなことも行います。

 問題は、これらを適切に組み合わせるということです。
  インプットか限られている以上、よさそうなものを片っ端からトライしてみるという訳にはいきません。コストパフォーマンスということが問題になります。そして、相乗効果が出るように工夫していかなければなりません。つまりはこの4つで何をするのかの最適な組み合わせを決めていくことが、プロデューサーにとってのアウトプットになるわけです。

 

 ◆ マーチャンダイジング


以上に加え、ゲームのプロデューサーに特に重要になる役割があるので、言及しておきます。「マーチャンダイジング」です。
通常クリエイターにとっては、ソフトウェアとしてターゲットマシン上で仕様どおりに動く状態になれば、それで完成です。しかし、商品としては、これはまだプロセスの途中に過ぎません。メディア(DVDなど)をプレスし、マニュアルなどと一緒にパッケージしなければならないのです。マーチャンダイジングとは、こうした領域の仕事のことです。
具体的には、資材の計画です。商品ができあがるために必要となる資材を手配していくということです。しかしより広くは、その戦略を立てるということを含みます。

 マーチャンダイジングはどんな分野にもあるのですが、内容は業種によってずいぶん違ってきます*4。ゲームの場合、かなりの部分がクリエイティビティを要するものになってきます。というのも、ポスターやパッケージなどで共通して使う絵=メインビジュアルや、タイトルロゴなどの判断を含むからです。
こうした判断の前に、そもそも全体のコンセプトをどう作るかという問題があります。さらに、4つのPで決定したこととの整合性も重要です。作品性によっては、あえて泥臭くかっこわるくデザインしなければならない場合もあるのです。自分自身が作るわけではありませんが、作られたもの(場合によっては作られつつあるもの)の善し悪しを見抜く目は必要になってきます。

ゲームの分類


 マーチャンダイジングの役割は「できあがったソフトウェアを商品として販売可能な状態にする」ということですから、観念的にはソフト開発の後に発生する仕事ということになりますが、実際には完成してから始めていたのでは遅すぎるため、開発と並行して進めていくことになります。
 図は、プロデューサー視点から見たゲーム製作の流れです。
 マーチャンダイジングは、流れの上の方にある「資材計画」部分になりますが、実際には図全体に散らばっていることが解ると思います。右側にある二本の流れが営業と広報で、それぞれ仕事の段階でいろいろなものを必要とします。その必要なときに必要なものを用意することは、プロデューサーの責任なのです。
 ちなみに、いちばん左の流れが、開発チームの仕事。現場クリエイターにとっては世界の全てと引き替えにしてもいいほどの開発フローも、商品製作全体の中では、同時並行で進んでいる流れの中の一本にすぎません。また、彼らの仕事は、β版での修正が終わればマスターアップとなり、打ち上げに行ったりリフレッシュ休暇(実際には貯まった休日出勤の消化)をとったりできるわけですが、プロデューサーの仕事はまだまだ続くのです。



 ◆ クリエイターとの境界線


 以上、プロデューサーの仕事を中心に述べてきました。ここまでの理解があれば、小規模な会社において社長がプロデューサーだったというのも、あながち間違ったものではないことが解ると思います。資金繰りを行い、従業員の採否を決め、作品性に対しても決定権を持つわけですから。
  しかし、ゲームが産業として成長した結果、両者の役割は否応なしに分けられるようになりました。小さな会社では、未だに社長自らプロデューサーとして走り回っている場合が少なくないのですが、職種としては観念上分離されているわけです。

 さて、クリエイター志望者としては、「境界線」が気になるかも知れません。
  私は、これは立場ないし役割の問題だと思っています。つまり、<b>企画屋の仕事とプロデューサーの仕事はなめらかに繋がっていて、仕事そのものでは白と黒を分ける境界線はない</b>と思うのです。
  ゲームを構想するということは、完成像へのイメージを作るということです。動いているゲーム、それを遊んでいるプレイヤー、両方をイメージできなければいけません。である以上、投入されている技術やコンテンツの規模も推測できなければなりませんし、プレイヤーがどこに面白さを感じているのかということも想定できる必要があり、その前提となる「どういう人なのか」も視野に納めることになります。
  結局これは、「4つのP」の中の"プロダクト"を決めていくということなのです。

 もちろん役割の違いというものがありますから、優先順位は異なってきます*5
  どんなゲームにするのかを考える場合、クリエイターはボトムアップ的に考えます。自分や自分の周囲にいる人が面白いと感じるものを考え、それがどんな要素で成り立っているのかを抽出し、誰に対して売れるのかなどへとつなげていきます。プロデューサーの場合、この順番は逆です。誰を顧客層とすべきかを考え、どんなゲームであれば面白いと感じてくれるのかを推測していくという順番になります。
  しかし、前にも説いたように、企画屋の仕事は一往復です。ボトムアップし終わったら、今度は逆に自分の構想の妥当性を考えなければなりません。これは実はプロデューサーも同じで、先にトップダウンしてからボトムアップしていくという点で異なっているのです。

 そのようなわけで、ゲームデザイナーとしては、自分の仕事の中にプロデューサー的な部分が相当に含まれていることを理解した上で、まずは現場要員として求められる仕事をしっかりとこなしていくことが、必要になるでしょう。
  前回とりあげたキャリアプランですが、実際にラダーを構築している会社の場合、プロデューサーをゲームデザイン領域の上級職として捉えていることが多いです。つまり、ゲームデザイナーとして一定の経験を積んだ人間が、いくつかのスキルを獲得することで、プロデューサーとなる資格を得るといういことです。また、特にそういうシステムを持っていない場合でも、立場が高くなれば自動的にプロデューサーに近い存在となってきます。4つのPに代表されるプロデューサーならではの知識も、着実に身につけていくべきでしょう。



 ◆ 事件は会議室で起きる


 歩くという運動は、なかなか複雑です。
  特記できるのが、それが「倒れる」と「倒れない」の境界線上での運動だとういこと。私たちは、当たり前のように歩くことができますが、これはいちいち考えていないからです。体勢が倒れる前に次のアクションを自律的に繰り出していく、そういう力を私たちは持っています(幼児はまだ練習中なので、しばしば失敗して転びます)。
  プロジェクトというもののやっかいさは、この辺に例えられるでしょう。定常業務の場合、各関係者にとっては何度も繰り返している定型作業の集合に過ぎず、どっしりと安定した運動のようなものです。しかしプロジェクトの場合、倒れるようなリスクを冒してこそ成立するものなのです。

 そして、参加する人数の多さも、この混乱に拍車をかけます。例えば二足歩行ロボットを操縦しているような状態を想像してみてください。しかも、右と左の手と足に全て別々の操作者がいて、操縦者は彼らに指示を出して歩かせなければならないのです。
  これはかなりやっかいです。ただ4人ぐらいなら、何とかなるかも知れません。操縦者が「右!」といえば、右足担当と左足担当が目配せしながら力のバランスを変え、両腕担当の二人もそれにあわせて修正するといった調子で。また、そのロボットが机の上に乗るぐらいのコンパクトなものだったら、多少の問題があっても勢いでなんとかなるでしょう。昔のゲームは、実際に4人ぐらいで作っていましたし、仕事環境も、開発部の島ひとつで納まる程度にコンパクトでした。
  しかし今は違います。手足の一本ずつに10人ぐらいの担当者がいる、巨大なロボットをイメージする必要があるのです。こうなると、各操作者も、周りの様子を見ながら適当に修正というわけにはいきません。ひたすらコマンドを待ち、忠実に実行するということになります。異変が起こってもすくに対応できず、最悪の場合ばったりと倒れてしまいます。
  これを解決するのは、手や足にも分散された脳がある状態にすることです。企画職、さらには各職種ごとのリーダー級は、そのような意味である程度の「プロデューサー性」を持って仕事に当たっていくべきです。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *


 職業としてのあいまいさは、一般消費者の方だけを向いている訳ではなりません。当人にとってもそうなようで、自分が何をしなければならないのか解っていない"肩書きだけのプロデューサー"が、しばしば見られまです。
  例えば、クリエイターの領域をつまみ食いしようとする人。もちろん作品内容への関与は仕事のうちですが、シナリオライターなりゲームデザイナーなりが責任を持って作り上げるべき部分にまで安易に手を出して来る人がいます。逆に、人・金・物の手配だけで済ましてしまう人もいます。つまりは、インプット部分だけを見ていて、アウトプット部分には気付いていないのです。また、単なる情報伝達人になってしまう人もいます。せめて双方向であれば救いようもあるのですが(でも苛立ちますね)、ひどい場合になると、ほんとうにただのメッセンジャーで、上位者や優位に立つ他部署からのリクエストを伝達するだけ。複数のリクエストが矛盾する場合もお構いなしで、実際に何をやるのかは完全に現場任せだったりします。
  これは、業界としてなるべく早く克服しなければいけない問題です。そして、これからこの道に進んでいく人は、自ら解決の当事者として活躍して貰わなければならないのだと思います。

【注釈】


*1 : 『交響詩ヤマト』
  例によって記憶にゆだねての引用なので、このタイトルおよび続くキャッチコピーも含めて、再現率はかなり低いです。「まあこんなことが書いてあったんだ」程度に理解しておいてください。

*2 : 外部の投資家から調達する
  この投資家が集まって権利主体となるために作られるのが、近年よく見る「製作委員会」です。
  映画の世界では、著作権の有無で「製作」と「制作」を分けます。著作権法では、映画に関しては、実際に作った人(監督など)ではなく、費用を負担した人(実際には会社)が著作権者となるように決められています。前者が「制作」、後者が「製作」です。例えば『千と千尋の神隠し』を作ったのは制作会社であるスタジオジブリですが、映画そのものの著作権は「『千と千尋の神隠し』製作委員会」(日本テレビ、徳間書店、三菱商事、電通によって構成)が保有しているのです。
  日常語感覚では、工場で"製品"を作るのが「製作」で、デザインスタジオで"作品"を作るのが「制作」なんてイメージがあります。作品性を強調したいゲームソフトのような商品では、あえて「製作」の語を避ける傾向があるのですが、局面によっては異なった意味合いを持ってくるので注意してください。

*3 :4つのP
  実はこの概念は、「マーケティング」テーマの中で、よく語られるものです。売り手の取り得る手段をこの4側面に分けたもので、それらの具体的な組み合わせを「マーケティングミックス」と呼びます。
  企業にはもっぱらマーケティングを担当する人=マーケッターという人もいます。プロデューサーとマーケッターの違いは、「作る」要素の有無でしょう。マーケッターは、分析をし提案をしますが、商品を開発・製作する訳ではありません。商品化プロセスでは、上流か下流のどちらかに位置していて、最初から最後まで一貫して取り組むようなことはありません。そこへいくとプロデューサーは、個別のプロジェクトに対して責任を持ち、本文中の図に示しているようなプロセスに最初から最後まで関わっていくことになります。
  なお、「プレイス」(place)は、辞書的には「場所」となりますが、この文脈では流通ないし販売の意味を持ちます。なんでわざわざこんな単語を持ってきたのかといえば、アメリカ人も、彼らなりに語呂合わせが好きだということでしょう。

*4 :内容は業種によってずいぶん違って......
  マーチャンダイジングは多義的な言葉で、業種によってはここで説明したのとは全く異なる意味で使われることもあるので、注意が必要です。例えば流通業界では、仕入れから販売にいたる業務のフローを意味しますし、版権ビジネスでは権利の取得行為をそう呼ぶそうです。merchandiseという単語は、辞書的には「商品」を意味しているため、商品に対して行う何かであれば、なんでもその名で呼べてしまうのです。 
  なお、言葉として少々長いので、「MD」と呼ばれることが多いです。また、日本語化して「商品化」という言葉を使う場合もあります。


*5 :役割の違いというものがあり......
  図では1つしか書いていませんが、プロデューサーは通常何本ものプロジェクトを掛け持ちします。あるプロジェクトが佳境に入っているとき、別の新規プロジェクトを立ち上げたりしているのです。一方企画職は、通常は開発チームの中で仕事をしていくため、同時期には一つだけです。実はこれが両者の最大の違いと言えるかも知れません。

 

「あなたから見たゲームデザイナーは......?」
    ○開発が忙しくなるとどこかに消えてしまう、何やってるかわからない奴。
    ○俺たちが苦労して作ったのに、"作者"として雑誌に載るのはあいつだけ。
    ○世界観とかはやたら細かくしたがるくせに、
     パラメータとか関数とか、肝心のとこはこっち任せだ。
    ○口だけは達者だね。
    ○プログラムも満足に書けないくせに、新しい技術が大好き。
     3Dとかオンラインとか、やたら大風呂敷広げたがる。
    ○結局最後には会社の側に立つんだよね。
     後3ヶ月延ばしてくれたらいいゲームに仕上がるっていうのに、
     営業や広報と一緒になって、「期限どおりに出せ」だもん・・・。
    ○そんな職種名の人は、うちにはいません。
     ベテランの雑用係がいるだけで、彼がスタッフロール上のゲームデザイナーです。

 
 
 ◆ 何をする仕事なのか


 月初めにアップするはずの連載ですが、2月分は「ハッピー・バレンタイン!」のごあいさつすら少々外れる日にまでずれ込んでしまいました。どうもお恥ずかしい話です。すぐには無理でも、徐々に本来のペースに戻していきたいと思います。

 さて、今回から第2部となります。
  これまでの第1部では、ゲームおよびゲームデザインを全体的な視点から見て来ました。いまだ流動的なこの分野に取り組む上では、しっかりした軸足が必要です。クリエイター自身も、時代とともに変わって行かなければなりません。「変わりながら自分を見失わない」ためには、本質に根ざした軸足の確保が不可欠だといえるでしょう。
  しかし、ゲームデザイナーが直面するのは実際の仕事です。自分自身がそれをしなければならず、評論家や経営者のような視点から観ていたのではいけないのです。「ゲームとは何なのか」に関する深い洞察ができたとしても、自分のやるべき仕事ができない人は、クリエイターとしては務まりません。
  この第2部は、実際の仕事として何をするのかを扱っていきます。

 現実論として、企画職はボーダーレスです。プロデューサー、ディレクター、そしてシナリオライターなど、隣接する職域の内容と重なる面があり、「ここまでが企画屋の仕事」という明確な線をひきづらいのです。そこで、ひきづらい線を無理にひくことなく、この第2部の各回では、「**的なゲームデザイン」という切り口で、実際の仕事のスタイルとしてとりうる類型にあわせて、個々の問題を考えていくことにします。
  これを少し違う角度から考えれば、「各職種の中にあるゲームデザイン要素」ということになるでしょう。ディレクターやシナリオライターとしてプロジェクトに参加している場合も、その仕事の中にはなにかしかのゲームデザイン要素が含まれています。その意味で、企画職志望者以外にとっても、重要な内容になってくることでしょう。

 

 ◆ 必要となるスキル


 さて、この「何をするのか」という問題ですが、これは「ゲームデザイナーは何ができなければいけない仕事なのか」という形に読み替えることができます。
  その意味では、既に第1章で書いています。そこでは、「プロジェクトを仕切る」「ビジネス面での判断・評価をする」「新しい遊びや面白さを見つけ提案する」の3つを挙げました。ただ、これから修行を始める人には、このままでは使えませんね。具体的に何をするのかが見えてこず、自分をどう育てていったらいいかがわからないからです。
  もう少し具体的な話というのも、実は少ししています。第3章の中で、野球の場合にたとえて問題提起をした上で、次のような説明をしました。

    1.表現と構成を磨く
    2.人前で話し、人と会話する
    3.ビジュアライズ
        (美しく効果的に作る/概念や関係性を図解する)

 これをさらに分解していたものが、いわゆる「スキル」です。ざっと挙げれば、こんなところになるでしょう。

    ○会話ができる ○人前で話せる ○文章を書ける
    ○図を描ける ○レイアウトができる ○数値を読める
    ○論理的思考ができる ○要約ができる ○自分を演出できる

 以下、個別に見ていきましょう。

○会話ができる
  人を動かす仕事ですから、会話ができることは大前提です。未知の相手やバックボーンの異なる相手と意思の疎通をはかることは簡単ではありませんが、ゲームが「ビジネスとして成立させる、工業的な総合芸術」である以上、まさにそういう能力が重要になるのです。相手の意見を聞くだけではなく、引き出していくことが求められます。

○人前で話せる
  会話は、参加する双方で行う共同行為ですが、単独行為的な「話し」も必要です。これには、会議室からステージ、さらにはテレビカメラの前など、いろいろな場面が考えられます。多人数を相手に話すことや、まとまった時間を貰って一方的に話すということも、当然必要になってきます。

○文章を書ける
  これは、言うまでもありませんね。文章が書けなければ、企画書も仕様書もあったものではありません。作家ではないので美文を書く必要はありませんが、わかりやすい文章は必須です。また、スピードも必要です。「拙速は巧遅に勝る」という言葉もあるように、どんないいプランでも、他人が出した後に出てきたのでは、価値はなくなってしまうからです。

○図を描ける
  言葉だけでは伝えにくいことを伝達するためには、図が必要になります。なお、"絵"の方は特に必要ありません。ゆえに画力は不要です。

○レイアウトができる
  文書などは、読みやすくレイアウトされていないと、伝わりません。特に提案書などは、短時間で相手を引きつける魅力を備えていないと、そもそも見てすらもらえないものです。また、文書だけではなく、『PowerPoint』などを使ったプレゼンテーションのスライドなども重要な表現媒体で、そういうものを作っていく能力も必要になってきます。

○数値を読める
  ビジネスにせよコンセプトワークにせよ、数値は重要になります。表やグラフから数値を読み取り、いろいろな判断に役立てられることが必要です。

○論理的思考ができる
  もともとソフトウェア作りには不可欠な特性です。直接プログラミングをする立場ではないにしても、ソフトを作る立場である以上、当然この能力は重要になります。また、他の能力においても、この要素は深く影響してきます。文章も図も、結局は論理性の裏付けが必要なのです。

○要約ができる
  見聞きしたものや自分で考えたものなど、適切に要約することが必要です。科学的な客観性が必要な局面でも、科学者的な説明では不十分なのです。

○自分を演出できる:
  話し方や見せ方などで周囲をその気にさせる能力のことです。「この企画は面白そう」「このリーダーは頼れそう」などと思わせるのは、内容の善し悪しとは別に、自分に対する演出力が大きく作用します。デザイナーは、存在していないものを良さそうに見せる仕事ですから、こうした力は重要なのです。また、メジャーになれる人間となれない人間を分かつのも、結局はここなのかも知れません。




 ◆ 知識+スキル=技術


 これらのスキルですが、実はゲームだけの問題ではありません。およそ企画職である以上どんな分野でも重要なものが多いですし、いくつかの項目は、就職一般においてよく語られる内容と重なってきます。
  これには、ゲーム産業は想像されるほどに特殊な世界ではないという現実もあります。かつてはいろいろ誤解もあったのですが、世間で常識とされる行為は、その大半がゲーム会社でも常識なのです*1。そして、企画職は、分野が異なっていても基本の部分で同じであるということも、言えると思います。何しろ、全体としての顧客は共通なのですから。
  とはいえ、実際のところ、他分野の企画屋をゲーム業界に連れてきても、そのままでは通用しないでしょう。ゲームの企画のためにさまざまなスキルを使うにしても、自分の好きなように使えばいいのではなく、ゲームのために使わなければなりません。ゲームのことを全く知らないのでは、「ために使う」ことだってできないのです。
  つまりは、個人のできることとしての「スキル」があり、それをゲーム産業で使える「技術」として成り立たせるためには、相応に特化した「知識」が必要ということです。
  これを式として表せば、次のようになります。

   知識+スキル=技術

 では、その「知識」部分は、どんな感じになるのでしょうか。
  図は、そのあたりの関係をざっとまとめてみたものです。左にあるのが個々の知識で、右にあるスキルと結びつくことでそれぞれの技術になるのだと言えるでしょう。

 

 

ゲームの分類


  図中、「知識」「スキル」の中間にある3項目は、先述の3要素を名詞として表現し直したものと言えます。
  「プロジェクトマネージメント」とは、ずばりプロジェクトを仕切ることです。
  「マーケティング戦略&分析」は、ビジネス面での判断・評価をするということに他なりません。
  そして、「ドキュメンテーション/プレゼンテーション」。直接的には「提案」に直結していますが、提案の前提として発見(&想像)があることは確かなので、"新しい遊びや面白さを見つけ提案する"にあてはまります。
  例えば、エントリーシートの「特技」欄に書くのなら、こうした名称が必要でしょう。また、授業科目として成立させる場合も(もっとも、『知識』部分もそれぞれに独立した授業科目になりそうですが)、こうした名称が役立つものと思います。



 ◆ 持っているものを活かそう


 図では、「知識」の部分には実に多くの項目が書いてあります。ひとつひとつ説明していると大変なことになってしまうため、ここでは省略します(Googleなりウィキペディアなりを叩けば、簡単に詳しい解説が得られることでしょう)。
  ただ、多いからといって「こんなのとても無理だ」なんて思う必要はありません。基本的には「浅く・広く」でいいのです。
  例えば「プログラミング」なんてありますが、これはもちろん知識としてのプログラミングのことで、実際にソフトウェアを開発できる能力ではありません。ソフトウェアがどういう仕組みで動いているのかを理解し、プログラマと専門的な事柄について対話ができれば、それでいいのです。*2
  また、それぞれの科目にしても、全部をマスターする必要はありません。それどころか、単に問題の存在に気がついているだけでも、そうでない場合よりは格段にいい状態です。
  そして、これだけ範囲が広いということは、どこか接点がある可能性も高いということです。例えば、夏休みの自由研究で発表用のパネルを作るのが得意だった人は、「レイアウトできる」のスキルにかなり近いところにいるわけですね。チャート技法やデザインなどさらにはその用途で使うアプリケーションの知識を組み合わせていくことで、「ドキュメンテーション」という技術を獲得していくことができるわけです。このように、「持っているものを活かす」から始めていくべきでしょう。

 ◆ ゲームは世界を飲み込む?


 一方、ここには盛り込まれていませんが、実質的に不可欠な知識があります。題材に対する体系的な知識です。
  もし野球のルールを全く知らなかったら、野球ゲームを作ることはできません。実際には単にルールを知っているだけではだめで、競技として、さらにはエンターテインメントとしての野球を深く理解していないと、厳しいでしょう。
  これは簡単なことではありません。そして、スポーツというのはゲームが守備範囲にする題材としては多数ある中の一つに過ぎません。

 例えば、ミリタリー。アクションやシューティングからシミュレーションまで、幅広くカバーする題材です。ゲーム業界として、これを外すわけにはいかないでしょう。
  では、『メダルオブ・オナー』を作るためには、どんなことを知っていなければならないでしょうか。
  まず必須なのが、第二次大戦の戦史ですね。それも、大きな視点での戦争だけではなく、「ノルマンジー」「硫黄島」「バルジ」など、さまざまな戦闘も知っていなければなりません。闘いがどう行われただけではなく、そこで使われた武器・兵器の体系も、知っていなければならないでしょう。陸軍のシステム=階級とか部隊編成といったものも、敵味方の両軍について解っている必要があります。
  こういう面での本格化には、ハードウェアの表現力の向上が大きく影響しているといえます。『フロントライン』の時代ならシンプルなものでしたが*3、こんにちのゲーム環境では、ライフル、機関銃、サブマシンガンは、効果において違うものとして描かれるべきです。となれば、ゲームシステム上も使い分ける必要があり、作り手には深いレベルでの理解が求められます。
  ただ、これを突き詰めると"理想のゲームデザインコース"のカリキュラムは無限大になってしまいます。ゲームが題材として扱うものは広く、それは人類文化の全てを飲み込むほどなのです。ミリタリーのバックには、政治・経済・歴史・地理から自然科学までが幅広く含まれます。そして、ミリタリー以外のゲーム......例えばRPGなどを加えると、文化・宗教・伝説といった領域についても深く識らなければなりません。

 こちらも基本は「持っているものを活かす」でしょう。自分自身が得意な分野......得意と言い切れないまでも、興味がある程度保てる分野を見つけ、深く識るように心がけるということです。


 ◆ キャリアプランを意識せよ


 「キャリアプラン」という言葉があります。
  元々は、会社の人事システムで使われだしたコンセプトです。
  簡単に言えば「社員に、ステップアップのプランを自分で立てさせる」ということ。会社の場合、長く働いている人は、地位・給与の両面で上昇していくのが通例です。しかし、それに必要な知識や能力は、現場の仕事さえしていれば自動的に身につくというわけにはいきません。また、全ての上級職に共通でもありません。本社のスタッフ部門に進む人もいれば、現場に近いところのマネージャー職に就く人もいます。そして、管理職ではなく、現場のマイスターとして活躍する人もいるわけです。そこで、それぞれの立場に応じて必要とされる能力や知識をあらかじめ明らかにしておき、社員自身に自分の道を計画させるという考えが出てきたのです。*4
  こんにちでは、会社の仕組みとしてよりも、働き手の個人的な取り組みとして意識されるものになっています。自分自身の今後のキャリアを考え、特定の勤務経験を積むべく特定の部署に志願したり、オフタイムを利用して資格を取得したりするわけです(したがってそのプランには、転職や独立開業なども含まれうることになります)。

 そんなキャリアプランの考え方ですが、既に新卒者にも必要になってきていると言えるでしょう。
  ゲームの開発職に求められる専門水準は、決して低くはありません。ところが学校の年限というのは限られています。2年か3年程度の年限では、間に合わない場合が少なくないのです。
  そうなると、むやみに「プロ並み」を目指すのではなく、段階的にできることの水準を高めていくという姿勢が必要になってきます。段階的に「何かにおいて使える人」になりながら、大きな目標の達成に向けて着実に進んでいくような、おそらくは卒業後まで続く計画を作っていく必要が出てくるわけです。これには"幅を拡げすぎない"ということも大事でしょう。
  ゲーム産業の場合、キャリアプランという問題は、プログラムやグラフィックスについてよく語られています。両領域が、ここ十年ほどの間でとくに激しい変化に見舞われたからでしょう。昔の技術は陳腐化してしまい、スーパーファミコン時代から働いている中堅どころが後から入ってきた新人に後れをとるなんていう事態も、現実に発生しました。
  ただ、できるべきことの範囲の広さから言っても、企画職にこそこの問題を真剣に考えなければなりません。自分が一人前になった時点でどのようなゲームデザイナーになっていたいのかを考え、そのためにどんなスキルをどの時点で獲得していくのかを計画するということになるでしょう。

 最後に、ひとつ。
  単に肩書きだけが欲しくて門を叩いてくる志望者というのは、どんな会社にとっても不要です。「ビッグな***の社員という身分が欲しい」なんて志望者のことで、大企業には必ずいるでしょう。これがクリエイターの場合は決定的です。「憧れの***を職場にしたい」「"ゲームデザイナー"という肩書きで生活したい」なんていうことなのですから。
  では、会社に向かってどんなことが言えるでしょうか。
  「御社はどんな人材をお望みでしょうか。私はそれに合わせます」なんていうのは、一見殊勝なように見えますし、昔の人事システムでは好ましいあり方だったのかも知れませんが、よく考えてみれば「入社できればそれでいいんです」といっているのと変わらないですね。
  求職活動は、自分という商品の売り込みです。企画の本質は提案ですが、企画者の自己PRの本質も同じなのではないでしょうか。
   「私はこんな能力と知識を持っています。
    そして将来こんなことをしたいと考えていて、
    これこれの技術の獲得を目指しています。
    会社に入れば、こういう点で役に立てますし、
    将来的にはこんなことやそんなこともできると思います。
    どうです、私を採用してみませんか?」
  語れるものが何もなければ、これは無理です。説得力のある売り込みができるための仕込みとしても、「知識+スキル=技術」は重要になってくるでしょう。

【注釈】


*1 : 世間で常識とされる行為は、その大半がゲーム会社でも常識
  ファミコン時代には、逆に「ゲーム会社の常識は世間の非常識」というのが"世間の常識"でした。プログラマはみんな変わり者で、その連中にとって過ごしやすい場としてできあがっていると理解されていたのです。
  そこには、多少の真実は含まれます。ただ、それも業界の勃興期ならではの混乱でしょう。実際、奇をてらうタイプの人間はチームワークになじまない場合が多く、そのデメリットをしのげるほどに才能がない限り、居場所はありません。ソフトウェア開発で個人技の入り込む余地が少なくなった今となっては、それも現実的ではないでしょう。少年時代のビル・ゲイツが当時のままで現在のマイクロソフトに訪れても、たぶん門前払いでしょうね。
  一方、フレックスタイムやカジュアルフライデーなど、世間の方が形式張らない仕事のスタイルを取り入れるようになり、差が埋まってきているということもあります(おしゃれなカジュアルがIT系、ただの普段着がゲーム系なんて感じはありますが)。
  まれに「ふつうのサラリーマンなんてやりたくないから」なんていう動機でこの業界を志望する人がいますが、これは失望する可能性が高いかも知れません。

*2 : プログラマと専門的な事柄について対話ができれば、それでいい
  プログラムの場合はそれでもいいのですが、ここにある全てがそうという訳ではなく、ちゃんと行動に反映できなければ意味のない知識もありますし、またプロの製作者レベルの「浅い」は、初学者にとっては十分深い水準かも知れません。
  なお、プログラミングの場合、実際にパソコンを動かしてみないと「知識として」水準の理解もしづらいものです。あくまでも「その道のプロを目指す人の努力に比べれば楽」ということです。

*3 : 『フロントライン』の時代なら......
  『フロントライン』は、80年代にタイトーから発売された、強制縦スクロールのシューティングゲーム。プレイヤーは歩兵になって、出現する敵兵や戦車と、銃で撃ったり手榴弾を投げたり、さらには相手の戦車や豆タンクを奪ったりしながら、闘っていきます。元はアーケードでしたが、後にファミコンに移植されました。
  グラフィックスの雰囲気を含めたゲーム性はとても緊張感の乏しいもので、反戦団体もあまり文句をいいそうにない作品でした。Wiiのバーチャルコンソールにもなっているので、興味のある方はプレイしてみてください。

*4 : 「キャリアプラン」という言葉......
  本文に書いてあるのとは、似て非なる意味で使われることがあります。「何歳までに何それになりたい」なんていう景気づけ的な未来史を、キャリアプランの名で呼ぶ人(&組織)がけっこう見受けられるのです。ろくに意味も考えないまま、字面の綺麗さだけで言葉を使ってしまう人が多いということで、嘆かわしいことですね。ただ、"悪貨は良貨を駆逐する"の例に漏れず、多数派になりつつあるようにも思えます。
  それと区別を付ける意味で、ここで書いたような概念を「キャリアラダー」、各職層で要求される能力やスキルおよび勤務経験などを「キャリアパス」という名で呼ぶ場合が出てきています。
  特に近年では、会社にとっての任用システムとしても注目されるべきものです。ゲームの学校も多元化し、専門学校と大学、さらには大学院まで登場してきています。こうして様々なレベルの新卒が登場してくれば、企業としても一元的に扱うこともできないのですが、このシステムを導入することで「キャリアパスに基づき、大学院卒はシニアデザイナーとしてのみ採用」という形で、見合ったレベルでの合理的な採用体制を構築することができるからです。

 

コンピュータゲーム業界の発展は、家内工業の発展と比較される。家内制手工業は個々の職人を起源とするが、産業革命までは繁栄しなかった。しかし、機械化によって安いコストでたくさん生産するようになると、規模の経済性による利益を享受できるようになった。......(中略)......もちろん、市場には特殊な製品に関しては個人的な製造業者にもチャンスは残されるが、単価は工場方式による製造業者よりもずっと高くなる。1人の製造業者の生産は、効率よく経営されている工場の生産を単純にスケールダウンしたものにはなり得ない。

  A.ロリンズ、D.モリス著 アクロバイト監訳
  「ゲームクリエーターズバイブル」(2001、インプレス)より

 
 
 ◆ 産業を知ることの重要性


  あけましておめでとうございます......というあいさつが示すように、今回が2010年最初の更新となります。間に冬休みが入ってしまったため、妙に間延びしてしまい、すみませんでした(冬休み前に入稿しておけば良かったんですが、怠慢でしたね)。
 さて、"活動フィールド"などというタイトルのもとに書きつづる今回は、産業としてのゲームに関する話題です。ゲーム産業の構造などを「クリエイターとして知っておくべきこと」という視点からまとめて行きます。これは、創作の講座としては、奇異な感じを受けられるかも知れません。例えば小説や漫画などの入門講座なら「どう書くか」「何を書くか」を中心に構成するわけで、「出版業界の仕組み」なんていうコマは、たぶんないでしょう。しかし、ゲームデザインを扱う以上、仕方のないことでもあるのです。
 ゲームは、大がかりな創作です。十数人もの人間が十数ヶ月もの間それだけに取り組んでようやくできるというようなものなのです。*1現実的には、ビジネスとして成立させなければなりません。同人ゲームという選択肢もありますが、その場合、内容的に限定されたものになってしまいます。「売り方の違い」に過ぎない小説や漫画の場合とは、根本から異なるわけです。そもそもデザインとは、近代工業の成立とともに登場した概念です。単なるクラフトワーク以上のことをするから成立するわけで、やっつけ仕事でできる規模のゲームには、開発者はいてもデザイナーは必要ありません。およそデザイナーを志す以上、産業への理解は不可欠なのだと言えるでしょう。



 ◆ 4つのゲーム市場


  一口にゲームといっても、全体をひとくくりにするわけには行きません。商品カテゴリーとしての違いを意識する必要があります。
 具体的には、次の4つになります。


   ○アーケード:ゲームセンターのゲーム。
   ○コンシューマ:家庭用ゲーム機。PSPなど携帯ゲーム機も含む。
   ○PCゲーム:パソコンのゲーム。
   ○ケータイゲーム:iモードやiPhoneなどの携帯電話で動くゲーム。

 まず流通面で違いがあります。
 アーケードの場合、直接の顧客はゲームセンターの経営者です。そして、一般に市販されるものではなく、業者間取引で売買されています。
 コンシューマとPCゲームはどちらもエンドユーザー向けに販売しますが、コンシューマは玩具、PCゲームは情報機器という形で、それぞれ母体となった産業が異なったため、同じルートでは売られませんでした。*2
 ケータイゲームの場合、最初から通信キャリアが主役です。キャリアごとに一元化されたダウンロード販売で、小売店すら経由しません。

 ただ、相違点は流通だけではありません。
 例えば商品のあり方に、大きな違いがあります。アーケードの場合、筐体自体を企画に合わせて新たに作り上げてしまうということがしばしばあります。これがコンシューマですと、専用コントローラひとつ作ることですらたいへんです。また、プラットフォームの仕様が変更されるということは、コンシューマでは大騒動になりますが、ケータイの場合日常茶飯事です。同じiモードであっても、タッチパネルだ傾きセンサーだと、機種ごとに次々と新しい機能が実装されてしまい、画面サイズすら統一されていません。
 そして、ゲーム性に"ふさわしさ"の違いが出てきます。もし『ドラクエ』がアーケードにあったらどうなるでしょうか。逆に、『戦場の絆』がケータイゲームだったら? どちらも全く違うゲームとして作り直さない限り、通用しないでしょう。やはり種類ごとにふさわしいゲームというものがあるのです。
 また、遊ぶ環境の違いという面にも注目が必要です。ゲーム機は居間のテレビにつながれていますが、パソコンは個人のデスクの上です。この違いが、ふさわしい作品性にも影響を与えて来ます。*3
 結局のところ、ユーザーのニーズが違っているということです。そしてこれが、市場という括りを見る場合の重要ポイントともなるわけです。



 ◆ ゲーム産業の構造


  続いて、ゲーム産業の構造を見てみましょう。
 全体を見れば実に大きく多様なのですが、その全てをスコープしたのでは、訳が分からなくなってしまいます。そこで、コンシューマを前提にまとめてみます。
 図は、業界の構造を模式化したものです。

 

ゲームの分類


  中心にあるのがゲーム会社。ゲームソフトを作る会社です。ここを基本にして周辺を考えてみましょう。
 まず、プラットフォームのメーカーがあります。具体的には任天堂やソニーなどで、コンシューマのゲームを作るためには、これらの会社とサードパーティー契約を結ぶ必要があります。
 次に開発用のハードウェアやツールなど。プラットフォームメーカーが用意しているものもありますが、サードパーティー製も広く使われています。また、近年ではミドルウェアやゲームエンジンなど、かつては自社で行なうしかなかった工程を補うソフトウェアが拡がっています。これらは、開発期間の短縮のため、ライセンス契約を結んだ上で適宜使うことになります。
 開発の過程では、必要に応じて外部のクリエイターを使います。個人もあれば、会社の場合もあります。種類によっては、アニメや映像など、他業種を本業とする会社に依頼する場合もあります。近年では、ボイス付きが通常なので、声優が所属するタレント事務所との交渉やレコーディングスタジオなどの手配も入ってきます。
 そして、開発が終われば販売となります。商品一般として、メーカーと小売店の間に卸売りが入るのですが、コンシューマゲームの場合、現実にはプラットフォームのメーカーが直接卸売りも担当しています。完成したソフトをDVD-ROMに焼いて先方の会社に持ち込めば、後はパッケージ化と流通まで進んでいきます。
  また、実際に売り出すためには、パブリシティ=広報や広告を展開しなければなりません。その相手方となるのが、ゲーム雑誌やゲーム専門のウェブサイトなどです。広告は、費用対効果を考慮した上で、テレビなどの一般媒体にも展開することになります。



 ◆ 産業の構成員


  以上ざっと説明しましたが、コンシューマ以外のカテゴリーでは、これとの差分として理解すると早いでしょう。
 PCゲームの場合、ゲーム会社にとって、プラットフォームメーカーとの契約関係はありません。Windows/Macとも、OSメーカーの許諾をとる必要はなく、勝手に作っていいのです。反面、一元化されたソフト流通システムはありませんから、自力で販路を開拓しなければなりませんし、量産およびパッケージングから卸売り業者への納品までも自分たちで手配しなければなりません。
 ケータイゲームの場合、NTTドコモやauなどの通信キャリアがここでいうプラットフォームメーカーの位置に入ります。そして販売店は存在しないので、全て直接エンドユーザーに販売しているのと同じです。課金システム(ダウンロード販売なのか月額課金かなど)は、キャリアによって可能な範囲に違いはあるのですが、ゲーム会社側の判断で決めるという点は共通です。
 アーケードでは、プラットフォームのメーカーというものがありません。ハードウェアも含め、ゲーム会社が自前で手配することになります。大手の場合、生産工場を実際に持っています。一般的にはそこまでは行かず、設計まで(生産はアウトソーシング)であったり、さらには大手の作った汎用性のある規格を利用することになります。また、流通についても統一的なシステムはなく、自社営業網で直接展開するにせよ、代理店や同業他社に委託するにせよ、自前で手配していかなければなりません。

 さて、ここまでは4市場を横並びに説明しましたが、実際には市場によってビジネスの規模が全く変わって来ます
 アーケードは、やはり大企業でないとどうにもなりません。ソフトウェアの開発力よりも会社全体としての営業力の方がものを言うからです。ただ、市場そのものが大きいわけではありません。肝心のゲームセンターも、昨今では"プリクラ"やクレーンものなど、ゲームでないものばかりが目立ちますね(会社としては"売れれば同じ"ということでしょう)。
 一方、PCゲームの場合は、営業力はあまり影響しません。というのも、実際の市場がかなり小さいため、営業をかけても売れないのです。*4パブリシティもウェブ媒体が中心ですし、ボイスも最小限の選択をしていくしかありません。そして、これを裏返しにすればコンシューマビジネスとなります。市場そのものはアーケードよりも大きく、かけたお金を回収できる素地があります。そこで、人気タレントを使ったテレビCFを多量に流し、ボイスとして人気俳優をずらりとフィーチャーしたりすることもあります。「営業力」「開発力」といった個別の力よりも、総合的なプロデュース能力がものをいう領域といえます。
 ケータイゲームの場合は、PCゲーム以上にスモールなプロジェクトとなります。というのも、ソフトウェアの単価の相場がかなり低いところで確定してしまっているためです。薄利多売を追求することも困難なので、最初からプロジェクトを小規模に押さえておかなければなりません。携帯ゲーム機用のゲームとケータイゲームは、何よりもこの事情から峻別する必要があります。



 ◆ 2種類のゲーム会社


  さて、図でも示しているように、ゲーム会社という存在も、こんにちでは2つに分かれています。「パブリッシャー」と「デベロッパー」です。
 パブリッシャーは、ブランドを持ち、広報力や営業網を通じてソフトを発売する会社です。この言葉は「出版社」の意味で使われることが多いのですが、それが示唆するような立場になるわけです。
 これに対してデベロッパーは、実際のゲームソフトを開発する会社です。パブリッシャーからの"下請け"となる場合もありますが、「販売:A社、制作:B社」という形で自社名を出す場合もあります。

 実際のところ、両者は完全に分離しているわけではありません。大手ゲーム会社の大半は、社内開発ラインを持ちながら、外部デベロッパーを使っての製作も行う「デベロッパー兼パブリッシャー」となっています。かつてはエニックスが"メジャーでは唯一の専業パブリッシャー"だったのですが、ここもスクウェアと合併することで、"兼"になってしまいました。
 また、立場も固定的ではありません。『イナズマイレブン』などで知られるレベルファイブは、こんにちでは自社ブランドで商品を展開していますが、少し前までは"著名なデベロッパー"でした。さらに、ふたつの立場が共存する場合もあります。ある分野ではパブリッシャーとしてゲームタイトルをリリースしながら、別の分野では他社の仕事をデベロッパーとして請け負うということもあるのです。
 どういうゲームを作るのかという面でも、両者の関係は一通りではありません。
 多くの場合、パブリッシャー側が発注者です。しかし、その注文自体がデベロッパーの提案である場合も少なくないのです。

     「今、**が注目されていて、こんなソフトが売れそうです。
      我が社では、こういうソフトを作る用意があります。
      どうです、予算**円ほどで、発注してみませんか?」

 さらに、この提案自体をパブリッシャー側から促す場合もあるわけです。プロデューサー側の作品内容に対する関与の度合いも様々で、むしろコラボレーションといった方がいいケースもあるでしょう。

 総じていえば、「スタイルもまた造られる」ということでしょうか。
 どちらがどんな役割をとるのかは、業界によっては定式化したスタイルがあり、それ以外の方法が許容されません。しかしゲームでは異なります。そこも含めて、当事者が造っていくものだということです。



 ◆ 業界システムが成立するまで


  以上説明した業界の仕組みですが、実際にこのような形になったのは、比較的最近の話です。私が会社にいたのは90年代前半ですが、その頃だとまだゲーム会社は単にゲーム会社であるのがふつうでした。大手も中小も、社内開発ラインによって作ったソフトを自社ブランドで発売するのが一般的だったのです。また、当時は外部の開発会社との関わりも薄く、プロジェクトのほとんどは社内ラインで作っていました。
 ゲームというのは、直接的にはクリエイター個人の創作によって作られます。特にゲームの技術というのは近年まで標準化されていず(特にプログラミングの場合、実際の創作はプログラマの脳内で行なわれているという点に注意が必要です)、各自が自分なりのスタイルを発見していくか、あるいは"師匠"の下でみっちり仕込んでもらうかしかありませんでした。そこで当時の人材システムでは、既に仕事としてゲームを作っている玄人を招いてその人なりのやり方でチームを率いてもらうか、「ある程度できる素人」を採用して社内で一人前に育て上げるという方法が、一般的だったのです。
 外注がしづらい事情も、これと同じです。作り方が会社ごとにまちまちでは、部分的に担当してもらうということは、開発スタイルを共有する系列会社ででもない限り無理でした。また、使える人材が各社ごとに囲い込まれている状態では、受注できる会社というのは完成した開発能力を持つ会社に限られるため、開発の選択肢を多様化させる要因にはなれなかったのです。

 それが、こんにちのようなシステムになっていったのは、プラットフォームの転換によるものです。
 スーパーファミコンからプレイステーションに移る際、二つの点で大きな変化がもたらされました。まずメディア容量が大きくなり、ボイスやムービーが事実上の必須になってしまったということ。そして、ゲームの作り方も、それまでのスプライトアニメーションを中心とした2Dからポリゴンを使った3Dという新技術に移行したということです。
 グラフィックスやサウンドなど、多人数が長期間専念しないと作れないわけですが、こうなると、全てを社内でまかなうのでは、人数ばかりが増えてしまいます。また、それまでとは全く異なった技術は、従来の社内ヒエラルキーに深刻な問題をもたらしました(つまりは、上役や先輩が、技術的にも優位とはいえなくなったということです)。
 これらは少なからぬ混乱をもたらしたわけですが、業界全体としては変化に対応、その結果として今日の姿があるのだと言えます。
 現実には、プラットフォームのメーカーがソニーに変わったことが、大きかったと言えます。任天堂はクローズドパーティー志向が強かったのですが、ソニーは対照的に技術情報の公開に積極的でした。また、『ネットやろうぜ』などに見られるように新人の育成発掘にも力を入れるなど、"新時代"のムードを盛り上げるのが上手でした。一方で、グラフィックスなどの面での変化は、ゲームならではの独自のノウハウが開発に占める比率を格段に下げることにもなり、人材市場のオープン化という点で相乗効果を発揮していったのです。*5

 実際には、一夜にして変わったわけではありません。様々なレベルでの混乱が続き、気がついたら現在のようになっていたという感じです。また、現状が安定しているというわけでもないのですが、もたらされた多様化自体は今後も続いていくものと思われます。



 ◆ ゲームデザインとの関わり


  さて、以上のような仕組みは、ゲームデザイナーとしてはどう捉えるべきでしょうか。
 昔、ゲーム会社が単に"ゲーム会社"でしかなかったように、ゲームデザイナーも単に"ゲームデザイナー"でした。ゲーム会社にいて企画という役割を与えられていれば、概ね同じような仕事が待っていたのです。
 しかしこんにちでは、様々なあり方が考えられます。
 現代のゲーム開発では、社内の完結した開発ラインは不可欠ではありませんし、仮にある場合も、それだけに縛られる必要はありません。新規技術が必要なら、外から見つけてくればいいのです。また、一般に社内の方が人事コストが高いのですが、納期や完成像など目標が曖昧な場合にも対応できるなど、メリット/デメリットがあります。うまく使い分けることが求められます。
 また、作る対象をゲームに限定する必要もありません。
 ゲーム屋以外にもゲームが作れるようになった時代は、同時に、ゲーム屋でもゲーム以外のものが作れるようになった時代です。インターネット上で展開されるウェブサイトや商品キャンペーンのためのサイトなど、かつてはもっぱらグラフィックデザイナーの領域だった ゲーム的なものが求められるようになっています。

 どのような立場をとるにせよ、重要なのは、変化そのものへの心構えでしょう。
 先述の変化が始まったのは、90年代中頃。社会一般の基準でいえば、新入社員がせいぜい係長になるかどうか程度の年数しか経っていないのに、ここまで劇的に変わってしまっているのです。ある時点で通用した常識を教条化することほど、ばかげた行為はありません
 "ゲームのルール"は大きく変わったのに、意識として昔のやり方を捨てきれない人は少なくありません。特に成功経験を持っていると、それに縛られてしまう傾向があります。

 ゲームが作品性においても高度化していることは事実なので、「よりすばらしいゲームを作る」のために、自分自身の力を深めていくというのも、ひとつの方向です。しかし、時代の変化がもたらしたのは、そればかりではありません。
 パソコンに向かっている時間よりも社外の人と打ち合わせている時間の方が多い、なんていうことも、今ではごく当たり前です。そして、ゲームデザイナーが「企画職」であるとも限りません。プロデューサーやコーディネーターなんて肩書きの人が実際にゲームデザイナーだということもあるでしょう。さらには、プログラマやグラフィックデザイナーなどにも、ゲームデザイナーたりうる場合があると言えます。
 こういった時代に対する心構えを持ち、自分がどのようなゲームデザイナーでありたいのかを意識することが重要といえます。



 ◆ 好きなればこそ勉強を


  教育の現場では、昔からよくこんなメッセージが語られていました。

 

     「プロってのはな、お客さんのために作るんだ。
      自分が好きだからじゃないんだぞ。
      重要なのは、何を作りたいかじゃない。何を作るべきかだ」

  こんな言葉の裏側には、志望者の多くが「熱心なゲームファン」だという現実がありました。放っておくと、ファンあるいはマニアの視点だけで理想的なゲームを考えてしまうのです。
 ただ、ゲーム開発の現場からゲーム好きがどんどん減っている現実を前にすると、この"薬"は効き過ぎだったのではないかとも思います。"好きだからできる"ではだめなのだとしても、好きですらない人間が理想的なわけではありません。むしろ"問題外"に近いのです。
 それでも広く門戸が開かれた結果、「就職の選択肢のひとつとして」なんてリアリストがどんどん増えてしまいました。実際には入ってからしっかり「好き」を理解してくれればいいのですが、"成功経験"があるとそうも行きませんし、多勢に無勢で押し切られてしまうことすら生じてきます。ただ、作り手にとって代替可能なものは、プレイヤーにとっても代替可能だということを忘れてはいけません。ゲーム好きの気持ちがわからない連中に仕切られたのでは、ゲーム産業の先行きは暗いものとならざるを得ないでしょう。

 今こそ、ゲーム好きの人間がキャスティングボードを握らなければならないのです。ただ、そのためには、できなければならないことをきちっとできる必要があります。
 もしあなたがゲームデザイナーを本気で志望していて、その理由が"業界の将来性"などではなく「好きだから」だったのなら、どうか胸を張ってください。ただ、自分がデフォルトで持っているのとは異なる角度からゲームを見る視点を、自分自身のものとして身につけておく必要はあります。
 ゲームデザイナーは、マーケティングやマネージメントなども理解していかなければなりません。本シリーズでもいずれその話題をすることになりますが、今回の話はその第一歩でもあるのです。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *


  この第4回で"第1部 基本編"は終わりです。物事を理解するためには、細かい話題を追いかける前にざっと全体を通してよいとの考えから、総論的な内容で続けてきました。次回からは各論に移りたいと思います。年の変わり目とシンクロしていないのはご愛敬ですが、世間は入試シーズンなので、人生の変わり目に合わせたということで......(強弁ですけど)。



【注釈】


*1 : 十数人もの人間が十数ヶ月もの間それだけに取り組んで......
むろん小規模なゲームであれば「数人が数ヶ月」で済みますが、本質は変わりません。
年度ごとに発行される『CESAゲーム白書』で説明されているゲームビジネスの収支構造のモデルケースでは、累積投資額をそれぞれ次のように設定しています。
○ 家庭用ゲームソフトウェア 5億円
○ 携帯ゲームコンテンツ   2千3百万円
○ ネットワークゲーム     9億3千万円
※広告宣伝費や販売管理費・ユーザーサポート費などは除外
スモールとされる場合でも2千万超ということですから、「アルバイト代を貯めて」というわけには行かないのです。

*2 : コンシューマは玩具、PCゲームは情報機器......
 8ビット機の時代、コンシューマゲームの流通は玩具問屋が仕切っていました。特にファミコン/スーパーファミコンでは、任天堂と密接な関係を持つ一次問屋の親睦団体「初心会」の影響力が強く、ゲーム会社はここに加盟する十数社と個別に契約を結ぶ必要がありました。
 一方、同じ頃のパソコンゲームは、日本ソフトバンクを筆頭とするソフトウェアディストリビューターが扱っていました。書籍流通におけるトーハンや日販などの取次会社の立場を見習って作られていたもので、ここと契約することで、全国のパソコンソフト販売店に向けて発売することができたのです。
 これらの仕組みは、業界構造の再編が進んだことで大きく揺さぶられました。初心会は既に解散、ソフトウェアのディストリビューターも、現在ではもう原型をとどめていません。

*3 : ふさわしい作品性
 この問題も、実際には流動的です。
 例えば、美少女ゲーム。かつてはPCでなければならないと考えられていました。コンシューマは小学生など低年齢層が中心な上、マシン自体が居間のテレビにつながっているからです。両親の目の前でやりたいとは思わないでしょう。
 ところが『ときめきメモリアル』は、PS版の方がより大きなセールスを挙げました。
その時点では、もう事情が違っていたのです。
    ○ ゲームの主なプレイヤー層は、高校生かそれ以上に移っていた。
    ○ 特にその年代層では、自室にテレビを持つ場合が多く、
      「コンシューマ=居間」という構図が崩れていた。
    ○ メディアがCD-ROMになり、容量の問題がなくなった。
 これも今では『ラブプラス』に見られるように、新たな展開を見せています。ときメモの頃の高校生や大学生も既に社会人。場合によっては家族持ちです。自宅で妻子の前でやりたいとは思わないから、外に持ち出して......ということでしょうか。
 ともあれ、どんなことでも教条化してはいけないということです。

*4 : 実際の市場がかなり小さい
 ここでは日本の場合に限定して記述しました。本文でははっきりと書かなかったのですが、日本独自のゲーム領域として"対象年齢を大人に限定した美少女ゲーム"というものがあり、国内のPCゲームはこれを中心にしているのです。
 世界的視野で考えた場合、既にPCゲームは単独の市場とは言えなくなっているかも知れません。コンシューマゲームと平行して開発され、同時期に市場に並ぶ場合が多いからです。いわば、プラットフォームのひとつとして「PS3」や「XBOX360」と同等の並びと言えるでしょう。
  結局大きく異なるのは流通だけということですが、これも日本独自の問題ですね。

*5 : ゲームならではの独自のノウハウ
 例えばファミコンの場合、画面は256×224ドットで、使える色も50色(同時には16色)というスペックでした。フォントは半角英文字しか搭載されていず、サウンドもリズムを含めて4音まで。こういう中で、グラフィックスを作り、メッセージを書き(ひらがなのみで、せいぜい18文字×3行です)、楽曲や効果音を鳴らさなければならなかったわけで、他では使えない独自ノウハウを蓄積せざるを得なかったのです。
 なお、PCの場合、同時期にWindowsへの転換があったのですが、少し遅れてゲームのための追加環境である『DirectX』が登場、これによってゲーム開発が標準化されたということがあります(これは後の『X-BOX』に繋がる流れでもあります)。

 

どうしておもしろいソフトがつくれるのかという問いに対しては、私はいつでも言っているんですが、結局はだれもがわからないんです。実はこうしてつくります、ああしてつくれますという解答が出せるとすると、だれでもそのようにすればできるわけでしてね。それは秘密でも何でもないんです。いまの時代で秘密なんていうものは隠し切れるものでもありません。
 率直に言って、いまだにどうしておもしろいゲームソフトができるかということは、世界中の誰にもわかりません。だからこそソフトウェアという言葉が非常に重みを持ってきているのでしょうね。

  山内溥(任天堂社長;当時)
  ―『カミトバ星/山内語録』
  http://homepage2.nifty.com/kamitoba/goroku/yamauchi.html より
  原典:中谷巌著『日本企業復活の条件』東洋経済新報社、1993年

 
 
 ◆ それは退屈から始まった

 鉛筆は六角形断面をしています。さいころの目の数と同じなのは偶然なのでしょうが、当然これを見逃すはずがありません。子供の頃、私の手元の鉛筆にはいつも1から6個のドットが打たれていました。授業が退屈なとき、サイコロ遊びをするためです。同じような経験をしていた人も、多いことでしょう。
  さて、サイコロはただの道具で、問題はそれを使って何をするかです。私の場合たいしたことはなくて、せいぜいすごろくのようなものを作った程度でした。ところが高校の頃のクラスメートは、それよりも格段に高度な遊びを開発していました。彼は鉛筆を使って野球をしていたのです。鉛筆にはヒットとかアウトとか書いてあり、それを転がして野球の試合を再現するのですね。やがてパラメータも導入されるなどゲームシステムは本格化、そしてペナントレースまで始め、日本シリーズに至るまでの熱戦が繰り広げられるに至りました。
  彼が長じてスクウェアエニックスに入り、あの『バトエン』を開発した・・・というのは大嘘ですが、実際やっていたことは同じだったのです。

 人類史上初のコンピュータゲームは、1958年にアメリカで作られています。ウィリアム・ヒギンボーサム(William Higinbotham)という物理学者で、研究所の一般公開で見学者に楽しんで貰うための展示品として、二人のプレイヤーがドットを打ち合うテニスのようなゲームを製作したのです。この人が人類初のゲームプログラマということになるでしょう。
  一方、「人類初のゲームデザイナー」となると、これは誰にもわかりません。アナログゲームまで含めて考えなければならないため、時間スケールがいきなり数千年単位になってしまうのです《*1》。ただ、一つ言えることがあります。退屈をもてあましていた創造性豊かな誰かが自然発生的にやった、ということです。
  ゲームをデザインするということは、遊びを作るということなのですが、この辺にジレンマがつきまといます。現代を生きる私たちは、学生であると社会人であるとを問わず、そこそこに忙しい存在です。しかし、遊びというのは貴族的な優雅な生活からこそ出てくるものでもあるのです。
  とはいえ、日常生活のこまごまとした面を、道具と社会システムによってサポートされているため、古代や中世の住人に比べれば王侯貴族のように楽な生活を送っているとも言えます。臆さず、取り組んでいきましょう。。

 ◆ とりあえず作ってみよう

 前2章を使ってあれこれと議論を進めてきました。しかし、ゲームデザインは何よりも創作です。論議を積み重ねていても、それ自体は生産的ではありません。絵を作りたいと思ったらまず描くことがだいじなのと同じように、ゲームデザインをしたかったら、まず自分で手を動かしてみることが必要です。
  作るべきものは、直接的には企画書と呼ばれるものになります。しかし初心者にとっては、文書としての企画書の前に、一つ問題があるはずです。ゲームそのものをどう構想するかということです。
  そんなの不要だから、企画書の書式だけ教えてくれればいい......なんていう人も、結構います。
   「アイデアに悩んだことなんてないよ。
    ぼくの場合、次から次へと湧き出てきてしまうんだから」
  一方で、自分のアイデアの貧困をぼやいている人もいることでしょう。ただ、この両者が客観的にみればほとんど違いがないなどということも、実際にはよくあります。「悩んでない」は、実は「悩むレベルにすら到達していない」であるかもしれません。

 この文章を読んでいる方の多くは、ご自分なりに構想した/しているゲームがあると思います。それはどのようにして構想したものでしょうか。私自身のノウハウではあれこれ言えることや言いたくないこともあるのですが、そこから離れて広く世間一般で行われているものという意味で考えますと、代表的なスタイルとして、次の3つが挙げられるでしょう。

  1.自分の好きな既存ゲームを元に、その"オレ流"をアレンジしてみる
   2.世の中に存在する楽しさ・面白さを見つけ、
     その理由を考えて「どうしたらゲームとして再現できるのか」につなげる
   3.日常生活の中から、ふだんは見落としている面白さを発見する

 どんなに面白いゲームでも、必ず飽きが来ます。その飽きの原因を客観的に見つめれば「どこが不満なのか」になり、それを裏返しにすれば「どうすればいいのか」になります。そして、そんな改良案を集め、さらに全体に対しても"オレならこうするのに"を入れていく......そのような形で、一応ゲームの案はできあがります。1が具体的に意味するのはこういうもので、これを「改良型アプローチ」と呼ぶことができます。
  一方2の場合、ゲーム以外のものからゲームのコアアイデアを導くという点で、対象の選び方によっては高い意外性を持つものが出現してきます。実際のゲーム作品にも、いくつかの例を求めることができるでしょう。これを、「構成型アプローチ」と呼びましょう。
  では3にはどのようなものがあるでしょうか。
  例えば『塊魂』など、そうなのかもしれません。授業が退屈なとき、消しゴムのカスをあつめてボールを作ったりしていなかったでしょうか。最初は単に暇つぶしだったものが、次第に自己目的化していって、どんどん大きなボールを目指したり、あるいは変わったものを組み込んだり。そこには、言葉にしづらい楽しさがあります。ではこれをゲーム化したら......? 以上は単なる想像ですが、じゅうぶん考えられることではあります。このような方法を「発見型アプローチ」と名付けましょう。

 さて、あなたの得意のスタイルはどれでしょうか。
  このどれでもないという場合ももちろんあると思います。しかし、かなりの部分がカバーできるのではないでしょうか。

 ◆ 構想への3つの試練

 これら3つのアプローチですが、実はそれ自体にはいいも悪いもありません。"ゲームの中からゲームを出す"の典型例といえる「改良型アプローチ」はあまりよくなさそうに見えますが、これも「悪いやり方でやってはいけない」ということで、絶対禁止ではないのです。
  私は、アイデアというものは、ダーウィン方式でやっていくしかないものだと考えています。つまり、どんどん出して適者生存のふるいにかけるということです。「どうすればいいアイデアが出るか」なんてことを出す前から気にするのはナンセンスでしょう。もしそんな有効な方程式があるのなら、大手メーカーがとっくに使っているはずなのですから。
  ただ、生存競争させる場は、まず自分の机の上に設定しなければなりません。人前に出す前に、まず自分自身で十分吟味し、だめなものを排除するということです。

 ここで、注意すべき点を挙げましょう。
  まず言えること。それは、ゲームソフトは経験であるということです。何らかの経験をプレイヤーにさせるためのソフトウェアであって、その経験自体が楽しめないものなら、そのゲームはつまらないゲームなのです。
  志望者から出てくるアイデア倒れのゲーム構想に、この点で難のあるものがしばしば見受けられます。
  第1回で、良くない例として挙げた"農業シミュレーション"など、その典型ですね。まず、農業そのものは(仕事としてやるのはきつそうですが)楽しみをもったものです。体を動かす爽快感や充実感があり、育ち行くものを見守る期待感、そしてその結果としての収穫は喜びいっぱいですね。でも、それをコンピュータ上でやって面白いものでしょうか。マウスで「畑」のグラフィックスをクリックし、「種」アイコンをドロップし、水や肥料を意味するパラメータのスライダーを上下させる......これには期待されるような楽しみはないでしょう。単なる作業に過ぎないのです。モチーフや目的部分がいくら面白かったとしても、経験するプレイ自体がただの作業なら、それは楽しみをもたらしてくれません。
  また、コンピュータゲームのデバイスで体験できるものになっていなければなりません。例えば、自転車のロードレース。私自身趣味として嗜んでいますが(レース出場はまだ1回だけですが)、ゲームにしようとは思いません。そのままゲーム化しても、「遅いだけのレースゲーム」になってしまうからです。自転車の、他の乗り物にはない固有の楽しさは、残念ながら今のゲーム機の入出力デバイスでは、表現できないものなのです。

 そしてもう一つ。新しくなければ、存在意義はないということです。
  新作のゲームが価値を認められるためには、オリジナルの作品といえるだけの新しさが必要です。新奇と珍奇を取り違えたようなアイデアは論外ですが、既に開発されているものをもう一度もってきてもやはり意味はないのです。
  たとえば『ドラクエ』は完成された面白さを持っています。ゆえに、それと同じシステムを持ったゲームには面白さがあるでしょう。しかし、それを新作として出していいのは、オリジナルのドラクエの作者だけです。

 というわけで、あなたが得意の方法でゲームを構想したら、次は3つの試練にかけてみましょう。
  第一に、あなたの発見した面白さは、経験としての面白さでしょうか。
  第二に、それはコンピュータゲームのデバイスで十分体験できるものでしょうか。
  第三に、ほんとうにそれは新しいものなのでしょうか。
  もし「題材として面白い」だけなら、それはゲームとしては面白くありません。経験として面白いものにしなければならないのです。そして、テレビによる視聴覚&コントローラによる入力という限定されたデバイスによって楽しめる経験でなければなりません。その上で、新しさが求められるのです。

 ◆ 例えばこんなもの

 一般論ばかりでは扱いづらいので、具体的な例を使って論じてみましょう。前述の「農業シミュレーション」という案を考えてみます。
  現実問題として「農業をモチーフにしたゲーム」自体は既にあるわけですから、これをプレイしてみるという手もあるでしょう。弱点・問題点なども見つかるでしょうし、修正や改造によって一気に解決を図りうることなども考えつくかもしれません。これが改良的アプローチということになります。
  一方、既存ソフトのことなど気にせず、自分独自で農業ゲームを見つけていくのが、他の2つのアプローチです。

 ストレートに考えれば、ここで有効そうなのは構成型アプローチです。家庭菜園が趣味として成立していることからもわかるように、農業はエンタテインメントたりうるだけの面白さを持っているはず。その理由を考えて「どうしたらゲームとして再現できるのか」につなげるわけです。
  では、プレイヤーにどんな経験をさせれば楽しんでもらえるのでしょうか。
  先に"マウスで「畑」のグラフィックスをクリック"などをだめな例として挙げました。これがDSのタッチペンやWiiのリモコンになったとしても、だめという点では変わらないでしょう。《*3》
    世界初! Wiiリモコンをクワに使って畑を耕す、斬新な操作感覚
  なんて言われても、とても楽しめそうにありませんね。

 まず、自分が直接それを行うのではなく、命令を与えることで間接的に行うという方向性が考えられます。ロボット耕作機にコマンドを与えるとか、チームのボスとして個性あるメンバーを適材適所の配置をすることで目的を達成するというようなものです。
  あるいは「現代日本の方法」という固定観念からの脱却というのはどうでしょうか。焼き畑農業から大規模プランテーションまで、様々なスタイルの農業があるわけですから、そのなかの「楽しい経験」をもたらせるものを考えていくのです。(個人的には、焼き畑から始まる原始農法がちょっと楽しそうに思えます)。
  また、農業そのものよりも、そのための環境を作る部分に注目するという手もあります。千枚田をみると作った先人の労力にめまいがしてきますが、同時に魅力的でもありますね。山を削り水路を築いて、全ての田んぼに十分な水を流し込めるようにする、など。そしてこの領域まで踏み込んだ以上、さらにスケールを大きくするということもあるでしょう。川をせき止め、用水路を掘削して大地をうるおす......例えばこんな感じで。

   あなたは、世界的に有名な農業技術者です。
    某大国の依頼を受け、手つかずの国土を開拓することになりました。
    ダムや用水路を造ったり湖を干拓したりして、生産高を高めましょう。
    ただし、やり過ぎは弊害をもたらしますし、
    どこかでの改良が別の場所へのしわ寄せをもたらしてしまうかもしれません。
    あれこれと調整しながら、大目的の達成を図っていきましょう。

 この場合、経験の内容はむしろ土木なのですが、「収穫」という最終目標はそのまま残すことができます。

 ◆ 例えばこんなもの2

 以上はシミュレーションゲームとして、間接的なアクション→リアクション関係を意識しました。もっと直接的な操作を考えるとどうでしょうか。
  例えば、音ゲー的な方向性など。各地に伝わる日本の伝統芸能として、田植え歌なんてものがありますね。本来、つらい田植えの作業を乗り越えるための知恵だったわけですが、呪術的な意味合いもあるのかもしれません。
  あるいは"トトロ"の一シーンのように、種の周りを踊ることでポンっと芽を出させて、さらにぐーっと背伸びをすることで生長させるとか。「ダンスで作物を育てる」という形でゲーム化してみるというのもいいかもしれません。話しかけることで植物の生長を促すなんていう試みも実際に研究されていますから、これを組み込むのも面白そうです。
  こんなあれこれを組み合わせてみれば、こんなものができます。

   あなたは、ニューウェイブの農業技術者。
    果樹と心を通わせることで、目当ての果実を実らせる研究をしています。
    踊りを見せたり歌をうたったりすることで、うまく果樹を育ててください。
    また、時には直接話しかけてあげることでも、育ち方に違いをもたらします。
    ユニークな果実を収穫する方法を、模索しましょう。

 一方、もっと原点の部分に目を向けるということもできます。「農業」というシステムとして確立する以前の、「植物を選別し、生長させる」部分に注目するのです。
  こんにち作物として知られているものも、原種を見るとあまりの違いに驚いてしまうことがあります。それだけ品種改良を進めたということですが、考えてみれば第一歩を踏み出した先人たちがいた訳ですね。その試行錯誤はたいへんだったでしょう。しかし、人間にとって、それは同時に楽しみ・喜びでもあったはずです。
  そこで、こんな形にしてみます。

   あなたは、100人の乗客を乗せた宇宙旅客船の船長。
    事故で、見知らぬ惑星に不時着してしまいました。
    救助が来るまで、なんと5年間。しかもし食料は大半が失われています。
    この星には、いろいろな食べられる植物があります。
    うまく栽培方法を見つけ、実を収穫して、生き延びなければなりません。
    救助がくるまでの5年間、果たして何人を生還させられるでしょうか。

 タマゴがあったら、何が出てくるのか気になるでしょう。種子にも同じことが言えないでしょうか。その意味で、これは「発見型アプローチ」となるわけです。

 ◆ 何が足りないのかを考える

 さて、こうして構想がまとまったら、それをプレイしている自分をイメージしてください。それに熱中し、眠かったりトイレに行きたかったりも我慢しながらプレイし続けているような姿を想像してみるのです。
  その上で、自問してみましょう。......まずあなたは、どんな画面を観ていますか? どんな音を聞いていますか? コントローラをどう操作していますか? 何が楽しくてプレイし続けていますか? スタートするとき、何をどうしましたか? どんなプレイ目的を持ってやっていますか?
  こうしたことが具体的に答えられなければ、そのゲームはまだ「面白い/面白くない」以前の存在です。言い方を変えれば、ゲームとして実体になっていないということなのです。そこで、これらをはっきりさせ、実体化してやる必要があります。

 まず、進行を決めることが必要です。企画書という段階では、具体的なステージであったり、あるいは画面モードの遷移であったりを、事細かに書く必要はありません。しかし、どういう手順でプレイし始め、どう進めていくのかを、わかりやすくまとめておく必要があるのです。
  次に、ゲーム画面の具体的な案が必要です。プレイフィールドはどのように表示されるのか、どんなインフォメーションが示されるのかといったことが決まっていないと、ゲーム画面のイメージはできません。
  そして、操作方法が決まっていなければなりません。
  これらは、説明にあたっては、目に見える形にする必要があります。進行は、チャートという形でまとめることになるでしょう。ゲーム画面は、図であればOKです。記号的に表現できればいいので、画力を磨く必要はありません。操作方法は、きっちりと図解した方がいいでしょう。

 ここまでやって、ようやく企画書あるいは提案書をまとめる段階となります。《*3》
  文書は人に読んで貰うものなので、相応の注意を払って創り上げなければなりません。そのため、いくつかの定番技法も存在します。ただ、テンプレートを探す前に、やるべきことがあります。どうしたら効果的に伝わるのかを自分なりに考えてみるということです。
  まず、説明には順番が必要だと言うこと。「Aを理解するためにはBの知識が必要」というのなら、B→Aの順で説かなければなりません。また、用語にも注意が必要です。自分がよく知っていても、読み手にとっても同じとは限りません。また、細かい説明をする前に全体像をざっくりと理解しておいて貰うことも重要でしょう。
  そして、文書作成に当たっていちばん重要なのが、構成です。
  企画というのは、本質的に提案です。「こういうものを作りましょう」と、提案するのです。そのため、相手に聴くための準備もできていないうちから、いきなり本題に入ってはいけません。シナリオさらには物語一般の作法として、導入部、展開部、終結部の3パートで構成するというスタイルがあります。企画の場合も基本的に同様で、コアとなるゲーム本体の構想の前に、導入部分が必要です。

 ◆ コンセプトワークの実践

 では、そこでは何を書けばいいのでしょうか。
  説得にあたっては重要なことがあります。それは、論理性です。提案を成就させるということは、相手と結論を共有するということ。そのためには"ぼくはこう思う"に過ぎない主観的な主張だけしていたのでは意味がありません。構想を客観化し、結論を必然的なものに見せることが重要なのです。そのためには、論理性を持たせなければなりません。
  まず大目的をはっきりさせ、ついで現状認識を行って問題をはっきりさせ、それを分析して具体的なコンセプトにまとめた上で、テーマを導き、それを現実化させる案へとつなげていく......このような順番が基本となるでしょう《*4》。一連の作業の中心にあることから、これをコンセプトワークと呼びます。
  企画書の導入部で展開することは、このコンセプトワークです。

 これも一般論では何のことかわかりにくいので、さきほど展開した農業ゲームを例に、説明しましょう。
  大目的としては「特定の層に偏らないコンシューマ向けの本格的なゲーム」ということにしてみます。では、この前提に立った上で、現状を具体的に切り取ってみましょう。

  【現状認識】
     ○今、あらゆる分野でエコロジーが叫ばれている。
     ○「ロハス」「草食系」などのキーワードが注目されている。
     ○既存ジャンルゲームにおけるリアルすぎる表現が
      青少年に有害ではないかと問題視されている。
     ○3Dなどの技術が飽和し、演出で差を付けるのが難しくなっている。
     ○コマンド選択よりも直接操作の方が、一般人には遊びやすい。
     ○直接操作でも難易度が高いものは、マニア以外には敬遠されがち。

 現状認識と言っても、そのままでは広漠すぎます。そこでこのような形で「何をするのか」に繋がるような形での絞り込みを行うのです。次は、それらを実現するためのコンセプトの構築です。これは次のようにできるでしょう。

  【コンセプト】
     ◎「環境」を自然体で考えられるような作品性を持たせたい。
        環境には、守り慈しむものという意味合いだけではなく、
        相互に影響し合う関係性という意味もある。こちらを強調したい。
     ◎競うことよりも、自己充足に軸足を置きたい。
     ◎新しい技術によって広がった表現の可能性を活かしたい。
        こんにちのゲーム機は演算能力も格段に向上しているので、
        ジェネリック《生成》的なゲームシステムを考慮する。
     ◎直接操作であっても、伝統的なアクションゲーム型は避けたい。
        「走る・跳ぶ」「蹴る・殴る」「撃つ」といった従来型ではなく、
        今世紀以降登場した新しいタイプのアクション性を考えていく。

 以上のコンセプトから、テーマを導きます。

  【テーマ】
     「"育つ"と"育てる"の相互関係を軸に据えた、農業を題材にしたゲーム」
        ・環境モチーフならではの、重層的な多様性を実現
        ・独自要素を加えた植物の生長シミュレーションを導入
        ・音ゲー/リズムゲー要素を取り入れた、直接操作によるプレイアビリティ

 ここまでやってから、具体的なゲーム案となるわけです。

  【具体的なゲーム案】
     プレイヤーは、農業技術者になって、とある果樹を育てます。
     この果樹には、大きな特徴があります。人と心を通わせられるのです。
     そのため、いい果物を実らせるためには、踊りを見せたり歌をうたったり、
     時には直接話しかけてやることが必要になります。
     そして、どう交流するかで、育ち方に違いをもたらします。
     ユニークな果実を収穫する方法を模索することも、ゲーム目的の一つです。
     実際のゲームプレイとしては、
     いわゆる"音ゲー""リズムゲー"に属するものとなり、
     リズミカルで楽しいプレイアビリティを実現します。

 ◆ デザインは1往復

 ここで一つジレンマが出てくるでしょう。実際に私たちがゲームを構想する順番は、こうではないということです。先に3つのアプローチを上げましたが、そのどれも"まず現状分析から始めよう"なんてことは言っていません。どれも「面白い」のコアをいきなり考えるところから始めています。
  では、このジレンマはどう埋めればいいのでしょうか。
  その秘密が、一往復です。
  まず、具体的なゲームを考えます。次に、それを考えるに至った自分の思考を客観視してみるのです。そして一般論に還元し、さらにその前提となる現状認識へとさかのぼっていくのです。つまり、現状→コンセプト→テーマ→具体的作品構想という流れを逆にたどっていくわけですね。
  ここで終わらせてしまうと、ただの嘘つきになってしまいます。そこで"復路"が必要になります。自分が到達した現状把握が果たして正しいのか考え、定立した一般論から結論に至までの妥当性を検証していくということです。
  この一往復の結果、全く違うゲームになってしまうこともあるかもしれません。そうしたら、今度は二往復目を始めればいいのです。

 私見としていわせていただくと、テーマ先行での作品作りという手法は、意味のあるものなのか疑問です。創作法の本などでそういうものを見るたびに「あんた、ほんとにそんな順番で作品作ってるのか?」と問いただしたくなります。
  ただ、一つ注意すべき点があります。今回述べているような方法でいい結果をもたらすためには、ある程度意識が高くなければならないということです。
  プロの企画屋がこれをできるのは、常日頃から準備ができているからです。
  今何が流行っているのか、どんなキーワードがもてはやされているのかなど、特にプロジェクトの予定がないときでも、空気を吸うように理解しているものなのです。つまり、現状分析や問題意識などはもう終わっていて、いつでも本体に入れるということです。
  専門的な仕事に就いている人間というのはどれも同じようなもので、遊びだろうが日常生活だろうが、つい仕事の視点で見てしまうものです。そして企画屋の場合、その対象は発想段階だけではありません。発想は、構成した上で他人に理解してもらえなければならないため、構成の手法や理解のプロセスにも、当然関心が及びます。結果として、広告やカタログなどの作りやお笑い芸人のトークに至るまで、仕事の視点から参考にしているものなのです。
  たとえアマチュアでも、意識の高い人は同じことがいえるでしょう。

 逆に言えば、単なるゲーム小僧が企画者として通用しないのは、その視点がないからです。プレイヤーとしてゲームに接する経験だけでゲームを作ろうとするため、(1)仲間内でしか通用しないような概念による、(2)改良ですらない「調整」程度の案を、(3)貧弱で配慮に欠けた表現によって、提示することになってしまうのです。そして、構想し終えるところをゴールだと勘違いしているため、その先への展望がありません。どう作りどう稼ぐのかを考えないまま、何を作るのかだけに没頭してしまうわけです。
  構想が次から次へとわいて出てくる人というのは、実はまとめる能力がないということの裏返しかもしれません。ゲームとしての具体性をイメージせず、結果としての面白さだけを先取りでイメージしてしまうのなら、いくらでも量産できますね。

 ◆ 志望者としての日常を

 以上、ゲームデザインの名においてやらなければならないことを、ざっと説明しました。
  ただ、実践において重要なのは、まずトレーニングです。
  例えば野球がうまくなりたかったら、どうするでしょうか。試合をどれだけ観ても、上達はしませんね。自分自身がやってみるしかありません。「野球」というスポーツはいくつもの要素に分解されますから、まずそれぞれの要素単位での練習が必要です。「投げる」「打つ」「受け止める」といった"ボールさばき"があり、その全体を支えるものとして「走る」があります。ただ、個別にやっていただけではだめで、ベースボールプレイとして統合する必要があります。一方、要素の中に自分固有の弱点があれば、それを個別に強化する必要もあるでしょう。
  ゲームデザインを実践する上で大事なのも、こういう考えです。
  これもまたいくつもの要素に分解できるもので、それぞれに対する練習は必要です。特に、表現と構成は磨いてください。文章力の貧弱な企画屋はまずいません。また、人前で話すことや人と会話することができなければ、企画という仕事は絶対に勤まりません。そしてビジュアライズ。画力は人によってまちまちですが、たとえ文字だけのスライドを作る場合も、美しく効果的に作るだけの技術は必要です。また、概念や関係性を図解する能力も必須です。ビジュアルは、極めるにはどうしても才能が必要です。しかし、企画屋に求められるものは、そのレベルではありません。勉強と練習で到達できる程度の技術なのです。
  ゲームデザインという形で統合することも重要になります。しかし基礎を持たないままやっても「ごっこ」に過ぎませんし、弱点があれば個別に補強していかなければなりません。
  これらは、ある日突然上手くなるということはありません。日常的な取り組みが必要です。そして、ゲームをやっているだけというのは、練習をせずに試合ばかり観ているようなものです。うまくなれるはずがありません。

 加えてもう一つ。教養です。
  冒頭で「遊びというのは貴族的な優雅な生活から生まれてきた」旨を述べました。ただ王侯貴族の生活には、教養という側面もあります。映画『アマデウス』の序盤部分で、主人公のサリエリが主君である皇帝にピアノのレッスンをつけているシーンがありますが、実際の宮廷には画家や学者など様々な種類の文化人が仕え、家庭教師として細かく刻んだスケジュールで教授していたのです。もちろんピアノの演奏だの錠前造りだのが国家経営という仕事に直接役に立つなどということはありません。しかし「王たるもの、世の中のことはあまねく知らねばならぬ」という価値観が、それを支えたのです。
  第1回で指摘した我が国の「職人気質」の伝統ですが、ときとして悪い面が発揮されてしまいます。文化におけるタコツボ的な風土=専門家は専門バカでよしとしてしまう風潮をもたらしてしまうのです。日本でも、支配階級の場合は西洋の王侯貴族と同様に教養を重んじていました。また、大学に近年まで教養部があったことからもわかるように《*5》、エリートの育成には"殿様"同様に教養が重視されていたのだといえるでしょう。「エリートvs現場」という形で模式化されているとも言えます。
  しかし、こと企画職の場合、それ一筋で打ち込めばいいと言うことにはなりません。エリート臭を漂わせているとてきめんに嫌われますが、能力的にはそういうものを持っていないといけないと思います。
  このあたりも、常日頃からの心がけということになります。
  実際には、眉毛つり上げて勉強する必要はありません。楽しめばいいのですから。

 ◆ 註

*1:人類初のゲームデザイナー
  古代エジプトには『セネト』という双六系のボードゲームがあり、なんと紀元前3500年頃の墓からも見つかっているそうです。また、われわれがなじんでいる囲碁も、前漢の皇帝の墓から出土しているそうで、二千年超の歴史です。
  ちなみに、"人類初のゲームプログラマ"については、異説もあるようです。歴史の検証というのは、なかなか難しいものですね。

*2:DSのタッチペンやWiiのリモコンになったとしても・・・
  「経験」を強調すると、入力デバイスの問題であるかのように勘違いされてしまうことが少なくないのですが、そうではありません。物理的に何をどう動かすのかといったことを問題にしているわけではないのです。例えば良くできたアクションゲームをプレイしているとき、私たちは「剣を振るっている」や「銃を撃っている」を"経験"しています。物理的には単にボタンを押しているだけですが、心理的にはそうなのです(そう思わせてしまえるから『良くできた』ゲームなのです)。注目しているのは、こうした心理的な経験です。
  なお、既にある農業テーマのゲームですが、実は全くプレイしたことがありません。もしここで例示しているようなことが実際にそのゲームの内容だったとしたら、どうかご容赦ください。

*3:企画書あるいは提案書
  「企画書」という言葉の示す意味は業界によってかなりの揺らぎがあります。ゲームの場合、作ろうとする製品の作品的な構想をまとめたものをそう呼ぶ場合が多いです。この場合、分量的な決まり事はなく、かなりの大部になることもあります。
  ただ、ゲームもいまではビッグビジネスとなったため、ビジネス面での提案がなければ企画書とは呼べないという考えも成り立ちますし、他業種のように「作る製品の内容までは含まず、予算とコンセプトだけでペラ1枚または『PowerPoint』のスライドの数ページ分にまとめる」とする場合もあります。実務的には、状況に応じてあらゆる種類の"企画書"を作れるようになっていないといけません。
  見本を示すのは簡単です。この仕事、長くやっていれば「使う当てのない没企画書」ぐらいいくらでもありますので。しかし本シリーズでは、あえてそれを出さずに行きたいと思います。私自身、試行錯誤によって自分のスタイルを見つけました。そして、時代や職務環境が変わっても対応していけるのは、その試行錯誤を通じて柔軟な対処能力を身につけてきたからです。サンプルの提示は、受け手の成長のチャンスを奪うことにも繋がりかねず、その意味でも慎みたいと思うのです。

*4:具体的なコンセプトにまとめた上で、テーマを導き・・・
  「テーマ」「モチーフ」「コンセプト」などの用語は、文脈あるいは論者によって、さまざまな使い方がなされています。特に「テーマ」などは、"愛"とか"友情"といった大向こうウケのする紋切り型の言葉を持ってくることが多いです。
  ただ、私としては、「具体的な結論を導くために役に立たないものは、制作実務上は考慮に値しない」を自分の信条にしています。そのため、テーマという言葉の意味するところも、その先を導くだけの具体性を求めるのです。
  前述のような紋切りワードは、基本的に評論家のためのものだと思っていてください。

*5:近年まで教養部があった
  かつて大学では、2年生までは「教養課程」=人文/社会/理数の各分野および外国語を取り混ぜて履修するコースに属することになっていました。たとえ法学部生であっても、3年になるまでは哲学だの数学だのを学んでいたのです。この仕組みは90年代以降次々と廃止されていったのですが、現在でも東大は堅持しています。入学時点では全員「教養学部」で、3年進級時に各学部に振り分けるという仕組みをとっているのです。「支配層を養成するのだ」という使命感のようなものを感じますね。